Leonna's Anahori Journal
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2009年07月26日(日) くるくる

 
休日。
数年前に買ったきり一度も聴いていなかったEpic Highのアルバム、"SWAN SONG"の包装をペリペリと剥がして聴いてみた。ううう、クールやね。どうしてこうもカッコイイのだろうか…
…と、けっこう良い気分でいたところへ、浅野忠信離婚のニュースが入ってきた。とたんにがっくりくる。どうしてこんなに落ち込むのか。自分でも訳がわからない。

きっと、浅野とCHARAの組合わせというのが、とても好きだったのだろう。浅野みたいな男の子がCHARAみたいな女の子にぞっこん惚れてる、というのが良かったのだ。それが、なんで離婚なんて、誰でもするような月並みなことになっちゃったんだろう。しかも「尊敬しているから別れる」とかなんとか、オトナコトバで嘘吐いて。あーこういうのって、ほんとにやだ。

あーいやだいやだという、ぐしゃぐしゃした気持ちとは別に、一週間ほど前から中途半端に伸びた髪の毛が、これまたぐしゃぐしゃになっている。それで、気分転換に髪の毛を切り行くことにした。切るつもりで行って、結果的にはパーマをかけて帰ってきた。見慣れた自分のパッとしないショートヘアに飽き飽きしていたので、衝動的にやってしまった。

失敗してちびまる子ちゃんのお母さんみたいになっちゃったらどうしよう、と、迷ったのだけれど、少なくともお母さんにはならずにすんだ。落ち着くまでしばらく大変そうだけれど、それでも飽き飽きよりはくるくるの今の髪の毛の方がずっといい。ヘアスプレーって大嫌いだったのだけれど、それすら新鮮に思える(よほど飽きてたんだな)。
 
いつもの美容師さんといつものサッカー、プレミア話を少々。リヴァプールってばほんとにもう…的な話と、あとはマンUからレアルへ移ったポルトガル人について。
レアルはスター選手の墓場みたいなところもあるけれど、あのポルトガル人なら、とりあえず自分を不利な状態に置くようなことだけはしないだろう、保身はバッチリだよきっと!、というあたりで意見の一致をみた。

気分がくるくる変わって疲れる一日だったけれど、結局最後は髪の毛までくるくるになって終わった。明日、会社だ。朝大変そうだな、このあたま…
 
 
 
 
 

 
 


2009年07月19日(日) 調子にのって

 
連休二日目、土用の丑の鰻につられてやって来たげんこつ山に、辻邦生の著作がいかに素晴らしいかを、つらつらと語って聞かせる。これはまあ、地面に穴を掘って、そこへ向かってしゃべるのと大差ない行為ではあるのだけれど。

すると、げんこつめ、「そのツジっていう人の本、ブックオフにはないんですかね。実はブックオフの100円割引券持ってるんですけど」なんて、なかなか良い提案をするではないか。辻邦生があるかどうかはともかく、何か面白い本が安く買えるかも。「よし、行こ!」とさっそく出かけてみた、その結果の購入本。
 
 
 「賢いオッパイ」 桃井かおり(集英社be文庫)
 「ヘンリ・ライクロフトの手記」 ギッシング(岩波文庫)
 「河童の対談 おしゃべりを食べる」 妹尾河童(文春文庫)
 「夕顔」 白洲正子(新潮文庫)
 「安土往還記」 辻邦生(新潮文庫)
 「海馬 脳は疲れない」 糸井重里/池谷裕二(新潮文庫)
 「わたしは驢馬に乗って下着を売りにゆきたい」 鴨居羊子(旺文社文庫)
 
 
…これ全部で千円くらいだった。辻邦生も買えたし。めでたいめでたし。
 
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ところで、先日amazonのユーズドで購入した「霧の聖マリ」の頁の間に、ふたつに畳まれた薄っぺらい紙が挟まっていた。DPEの仕上り明細表で、ワセダセイキョウ コープセブンと印刷されている。日付は、040911。まえの持ち主は早稲田の学生だったのかも。

古本を買うと、たまにメモ(走り書き)や、手紙はがきの類いが挟まっていることがある。何かちょっとロマネスクな感じがするものだ。私が手放した本にも何か挟まったままになっていたかもしれない。せいぜいがレシートか、おせんべいのかけらくらいのものだと思うけれども。
 
 
 
 

 


2009年07月17日(金) 今週買った本

 
しばらく海外へ出ていない。今年中はちょっと微妙だけど、来年はイタリアへ行きたいな、などと考えていた折も折り。

夜、布団に寝そべって「須賀敦子のアッシジと丘の町」という、いつ買ったのかも忘れてしまった写真本(文/写真 岡本太郎)の頁を捲っていて、中の一枚に目が釘付けになった。
それは夕暮れ時、薄ピンク色に染まる空気のなかにたたずむアッシジのサンタ・キアーラ聖堂を写したもので、冬の冷たい空気の下で、まるで空に向かって胸をひろげているように見える。
こ、これは!と愕然とする。どうしたことか、行ったこともないのに懐かしくて、涙が出そうになった。この空気を確かに私は吸ったことがある、と思うのだ。こういうのを「帰りたい風景」と呼ぶのだろうか。

かくして「旅の準備は完了した」という確信(だけ)はしっかりと出来上がった。しかしながら浮き世の枷が、やんわりと袖をつかんで離してくれない状況なのだ。
そんなこともあってか、今週の購入本は「伊太利へ伊太利へ草木もなびく(たまに英国、仏蘭西へもなびく)」というようなラインナップになってしまった。
 
 
 「地図のない道」 須賀敦子(新潮文庫)
 「須賀敦子のローマ」 文/写真 大竹昭子(河出書房新社)
 「霧の聖マリ ある生涯の七つの場所1」 辻邦生(中公文庫)
 「神々の愛でし海 ある生涯の七つの場所7」 辻邦生(中公文庫)
 「日の名残り」 カズオ・イシグロ(ハヤカワepi文庫)
 「知の編集工学」 松岡正剛(朝日文庫)
 
 
「地図のない道」と「須賀敦子のローマ」はamazonで注文。カチッとクリックしてサッ!と送ってもらった。辻邦生の二冊はもう新本では手に入らない。amazonのユーズドで。「霧の聖マリ」は昔、父の書棚に箱入りの単行本があった。この頃になって、父と、辻邦生についてただのひと言も話さなかったことを、悔やんだり不思議に思ったりするのだが、要するに私がまだ育っていなかったということなのだろう。今年の後半はこの、ある生涯の七つの場所シリーズを読めると思うだけで幸福感が胸に満ちてくるチマリスである。
 
「日の名残り」と「知の編集工学」は会社帰りに、青山ブックセンター丸ビル店で。カズオ・イシグロも松岡正剛も書籍という形では一冊も読んだことがなかったという事実に我ながら驚きつつ、購入。「知の編集工学」を店頭で立ち読みしているときに、こんなフレーズにぶつかった。
 
 
 “…ワクワクする面白い話というものがもつ特徴は、そこにあらわれる出来事や知識たちが、それぞれ「自分自身に関する知識」のハイパーリンク化をもってそこに出入りしているということなのである。”
 
 
難しくてよくわからない。でもすごく面白そうなのだ。少なくとも「自分自身に関する内部状態のハイパーリンク化」に関しては、購入本(読む以前の本)というのもかなり大きなウェイトを占めている(間違いなく!)と思う。
そういえば須賀敦子にも「本に読まれて」という著作があったな。
唐突に、面白い、ワクワクすると感じるものから離れないでいよう、死ぬまでしがみついていようという決心がドーンと降ってわいた。
 
 



 
 


2009年07月12日(日) 華燭の典

 
きのう。
夕方からいとこの結婚式で都内の式場へ出かける。
新郎は母方の叔父の三男坊。母は八人兄弟の長女だったので、まだこれから結婚といういとこが何人かいる。これまでこういう席にはあまり積極的に出かけて行かなかったのだが、両親がいなくなって自分にお鉢がまわって来たと感じたからか、魔が差したとでもいうのか(おめでたい席にこの言葉は失礼か)、たまには若い人の幸せそうな顔でも拝むか、と、出席のハガキを出していたのだった。

控え室に入ると、否、長い廊下を通って控え室へ入るまでの間にも「おおー、チマちゃん!よく来たね!」と何人もの身内から言われる。まさか私が現れるとは思っていなかったのか、皆一様に驚いているのだが、意外にあったかい感じ。叔父叔母もチマちゃんチマちゃんと寄ってきては「元気?」とか「仕事どう」とか話しかけてくれる。うれしいのだけれど、こういうのに慣れていないのでどうしていいのかわからない。控え室にずらりと揃った親類縁者のうしろの壁に目を泳がせる。

それにしても八人兄弟、なのである。叔父叔母のほかにもその娘息子(つまりいとこ)、そしてまたその連れ合いと子供。それらがみんなよそ行きを着てぞろぞろと集まってきている。で、誰がだれだかわからない、かと思うとそうでもない。子供の顔をみれば誰が親だかすぐにわかる。男親と女親、両方の風貌の絶妙なるミクスチャー。遺伝子というのは笑っちゃうくらい正直だな、と変な感心をした。

チャペルでの挙式のあと中庭で食前酒を飲みながら歓談、新郎新婦を囲んでの記念撮影大会。シャンパンがやたらと旨い。披露宴では子供の頃よく一緒に遊んだ従姉妹(二児の母で、美しい長女を伴っている)と、年齢の近い叔母(チマと仲のよい叔父貴のお嫁さん)と一緒のテーブルで、ひそひそと「女同士のはなし」をする。

私が、あろうことか、この頃コレステロール値が高いのだと話すと、従姉妹が「私の友だちにも痩せ型なのに数値の高い人がいて、でも、お医者様には病気ではなくて体質だから大丈夫って言われたんだって」と言う。叔母も「女性は時期的にそういうの出ることあるのよ。あまり気にし過ぎない方がいいんじゃない」。そうよねそうよね、と言いながら前菜の皿にひらりと置かれた一片の生フォワグラを食す。不敵で、ちょうど良い加減にいいかげんで、深刻ぶらなくて、こういうとき、中年ていいなぁとつくづく思うのだ。
 
この次またいつ会えるかわからない親類縁者と別れて帰る電車の中で、まだこれから結婚する可能性のあるいとこは誰かと考えた。たまに(本当に何年かに一度のたまーに)なら、こういうパーティもいいな。ひそひそ話しながら美味しいものを食べて、着飾った若い人たちを眺めるのも、と、それこそ魔が差したとしか思えないようなことを考えていた。
 
 
 
  




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