風紋

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2005年03月22日(火) 割と無理して書く時 / BGM2曲

少しずつ、仕事を進める。書いたり、読んだり。

割と今日は無理をして、かたちにならないものを言葉に残そうとしているような気がする。言葉ではあらわしきれないものもあること、今は言葉にできないこともあるということもわかったうえで。

いま言葉にしておかねばならないという気持ちと、言葉にできる状態にない時に無理に言葉にするのはやめた方がよいという気持ちが拮抗する。

いま私自身の中にあるものの中で、言葉にしたくないものも出そうとしているような気もするし、言葉になるとも気付いていなかったものも出そうとしているような気もする。

こんなことは初めてではないような気がする。割とすっと言葉にできた時もあったような気がする。そんなこともありながら、私はいろいろな場所にいろいろなことを書いてきたし(Web日記という場でも、そうでない場でも、開かれた場でも、閉じられた場でも)、これからもきっとどこかに何か言葉を書いていくだろう。

「いまの私」は、これまで色々なことを経験・体験してきた中で、できあがってきたものだ。これまで色々なことを経験・体験してきた時に、その時の想いを言葉にしてきたこともあった。だから、過去に私が書いたものなども読み返したりした。しかし、その時以降もいろいろなことがあって「いま」に至る。そして「いまの私」も刻々と変わっていく。しかし、過ぎ去ったいくつもの「いまの私」のどれもが私であって、それを踏まえながら私は生きてきたのだ。たぶん明日も。

そんなことを考えながら、ぼりぼりとお菓子を食べながら、パソコンに向かい、深夜。う〜ん、美味しいけれど、健康上良くないような気もする…。

う、今日はひとまずこれで止めるとしよう。

言葉になることもならないことも含めて、気持ちよく大切に、地に足をつけてしっかり1日1日を過ごすことを、いまの私は望んでいるから。

こういう時に書いたWeb日記は、なんとなくぎくしゃくしているな、という気持ちはありつつ、更新する。



BGM。
「ビザンチンのモザイク画」(F.チェザリーニ作曲)(Mosaici Bizantini / Franco Chesarini)。第2楽章の冒頭を聴いて未だに動揺する私自身を見つけて、驚く。この箇所に差し掛かると、胸のあたりに大きな重い「かたまり」があるような感じがする。振り返ればこの「かたまり」は私がずっと持ち続けているものだった。普段はそれを感じないだけであった。感じるたびその「かたまり」をどうしようか、比喩でなく胸が苦しくなるような気がする。

あと、「ベイ・ブリーズ」(真島俊夫作曲)。この曲は、身体で覚えているという気がする。何度か演奏されるのを聴いたことがあるし、私も演奏したことがある。


要領よくやろうとするのはあきらめかけている。速度は遅くて、悩みながらで、要領は悪くても、毅然として、納得して、心からの笑顔で毎日を過ごしたい。そうありたい。


2005年03月15日(火) 「遠い」友人に会いに行きご住職とお話。

今日も今日とてお出かけ。細々した用事を済ませたり、友人知人と会って話したり笑ったり、買い物をしたり(本とCD)。年度がわりは、焦ろうという意志がなくてもいろいろ区切りであるので、なんだか気忙しい。


帰りのバスの中で、ふと「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ行った友人」に会いに行こうと思い立って、いつもと違うバス停で下車して、お寺へと歩いていった。

そろそろ行きたいとは思っていた。行かなければならないとも思っていた。疲れたからやめようと思うことが多かったのが、今日はバスの中でふっと「行こう」と思ったのだった。

思い立ったのが突然だったので花も買えず手ぶらで行った。ごめん…。

お寺の境内には梅の花が咲いていた。通り抜けて、友人のいる場所へ。座って手を合わせて、いろいろと考えるともなく考えて、立ち去りがたい思いでいた。ふと横を見ると沈丁花の花が咲いていた。きれいだね。寂しくないね。そういえば夏は傍に紫陽花が咲いたりしていたね。蝶々も蟻もいたね。でも寂しい時もあるかな。私は私で来るからね…。

ちょっと御住職にお会いしたいなと思い、奥に声をかけると、お留守とのことで、がっかりと帰りかけたちょうどその時に、御住職が戻って来られた。いったん駄目だと思った矢先、嬉しい驚きであった。御住職の「まぁまぁ、あなた、久しぶり。どうぞ」のお言葉に甘えて、おいしいお茶をいただきながらゆっくりと話をさせていただいた(玄米茶だったのかな…?おいしかった)。

「1年ぶりくらいですかね」とのお言葉に、振り返って「そうですね」と答えた。そういえばほぼ1年前に私は同じようにこのお寺を訪れ、友人に会い、ご住職とお話をさせていただいたのだった(日記にも書いていた)。「お見かけしていないので少し気になっていたのですよ」との言葉に、とてもありがたい思いがした。この1年、友人に会いにお寺を訪れてもご住職にお会いできないことも数回あったような気がするけれど、なんだかんだで来る頻度自体が減っていたような気がする。ごめん…。

いろいろな話を聴かせていただき、また、いろいろな話を聴いていただいた。いつも、お話するたびに、安心する思いと、私は私を生きようという思いを強くしていただくように思う。

塔婆をお供えさせていただいた。目の前で書いていただき、見せていただいて、私は彼女とともに在るのだと改めて思った。

友人のことは、未だに私にとってある種の痛みを伴って思い出されることである。忘れられない。恐らくこれからもそうだろうと思う。思い出すたびに傷が疼くような思いをすることだろう。それでいい。それでもたぶん、いい。

私は死ぬまで死なない。笑って私の道を幸せに生きるから。

薄暗くなった空に薄い月が見えた。


2005年03月14日(月) 近況(ばたばた、聴く、ミニコンポを出す)

先週はいろいろとばたばたと動き回っていて、そんな中で日記を書いておきたいなと思いつつ書けずにいた。少しひといきついた今、書こうかなとパソコンに向かうと、先週の気持ちはどこへやら、何を書こうかよくわからなくなってしまった。そんな今日。

先週は各種手続きの準備をしたり済ませたり、美容院に行ったり病院に行ったり病院に行ったり。そんなにすごく忙しいというわけでもなかったのだろうけれど、一時的にぐっと暖かくなった時期だったということもあろうか、なんだか身体が温度の変化についていかずに疲れてしまった。

待ち疲れという要素も実はかなりある。

美容院や病院や、あと細々とした用事をしたり買い物をしながら、こういう時には、私は、私自身のことをプラス面もマイナス面も必要なことを素直によい調子で話せるような人に会えるとありがたいなと思った。

それは眼科に行った時に特に実感したことだった。主に花粉症のために行ったのだけれど、「えーと、2年前の血液検査でアレルギー体質と出てましたね。予防という点から見るともうちょっと早く来てほしかったところですね…」、「すみません。なんだか億劫で、なんとなく症状が来た今になって、来た方がいいかなぁ、それとも行かずに済むかなぁとか迷って結局来ました」、「遠慮なく来てくださいね。今日はマスクはつけてきましたか」、「…つけてません」、「それはいけませんね。あそこの薬局に売ってるので買って帰りましょうね」、「はい」、などと。私の生活をきちんと私自身が話せるような感じがずっとあった。きちんと聴いてくださったうえで、私が「私に合ってるし必要なのだ」と思う薬を処方していただいた。

場面が違えば、私自身も、聴く側になることがある。その時は、そんなふうに聴ける人でありたいな、と思った。

だめだ、なんだかうまく書けないや。


部屋の大掃除が区切りのよいところまで終わったので、新しいミニコンポを出して組み立てて音楽を楽しんでいる。前のものよりも随分サイズが小さくなった。しかし前のものよりも機能は多い。すごいな、と思う。

ゆっくり音楽を聴く環境が整ったので落ち着いた気持ちでたくさん音楽を聴いている。今まで聴こえなかった旋律がはっきり聴こえたり、リズムをより生き生きと感じ取ったり、ということができて、嬉しい。


2005年03月06日(日) 注意力が鈍ってぼーっとして初心忘れるべからず / 大掃除、仕事途中経過と思うこと

3月になって少しずつ動き出せるようになってきたように思う。とは言うものの日記を書きかけて日付に「3月5日」と書いているあたり、少しのんびりしているけれど。


昨日はなんとなく、注意力が鈍ってぼーっとしているなということが自分でもわかる日だった。時々そういう時がある。昼間から「今日は静かにしておいた方がいい日なのかな」とは思っていたのだけれど、夜に(少し無理をして)吹奏楽団の練習に行った時に痛感してしまった。自動車のライトを消し忘れたままエンジンを止めて警告音であわててライトを切ったりした。合奏中も、普段なら間違えない箇所で思いっきり一小節早く入ってしまった(恥ずかしかった)。練習場に通じるドアも「開かない開かない」と冷や汗をかいていたら、ドアノブの「開」と「閉」を間違って「閉」の方向にまわしていたのだった。

あぁ、こんな日なんだな、と思った時にふと頭に浮かんだ言葉は「初心忘れるべからず」だった。なぜだろうか。自動車を運転して間もない頃、楽器をはじめて間もない頃のことを思い出すことから、何か「いま」につながるきっかけがありそうな気がした。またゆっくり後で考える。


今日は部屋の大掃除をすすめるのと並行して、仕事の整理などをした。

月末に1つ控えている大仕事について(他の人から見るとそれほど大したことでないかもしれないけれど、私にとってはかなりの覚悟が要るので「大仕事」なのだ)、一緒に取り組む人のひとりによいきっかけを投げていただいた。そのきっかけを糸口にいろいろと考えている。考えて考えて考えてしているが、煮詰まる。これまでの私自身のことを振り返りながらの作業でもあるのだが、あまり思い出したくないこともあったりして、ため息をつく。

以前の私なら無理に思い出そうとしていたかもしれないけれど、とりあえずいまは、無理に思い出そうとか、無理に考えようとか、ということをしなくても自然に思うこと感じることを大事にしていこうと思っている。

なんとかなるさ。なるようになるさ。なるようになったら、そこからまた新しく進んでいくことになるのだろう。


大掃除がある程度落ち着けば、新しいミニコンポを出して音楽をゆっくりと楽しむ予定。


2005年03月01日(火) わ、3月 / 感じたことを大切に / 餃子作った

わ。3月になってしまった。

…ん? なぜ私は「なった」でなく「なってしまった」という書き方をするのだろうか?…と考えてみると、最近、のんびりほけほけと過ごしているからだろうか、と思い当たった。

梅が咲いているのを見かける。先日は花屋さんの店先に桜が並んでいたのを見かけた。

2月はゆっくり過ごしていたけれど、そろそろ少しずつ動き出さなければなぁ。今月と来月はいくつか勝負どころがあることだし。私自身の力を存分に出せるし、出さなければならない機会があるのだ。良い形で臨むことができるようにしたい。…それも何気ない日々の積み重ねかな。


最近、私は私自身が感じたり考えたりしたことを大切にしたいなということを思っている。そして、できるだけそうするように心がけている(なかなかそうはできないこともあるけれど)。

嬉しい、楽しいと感じることだけでなく、苦しい、疲れた、寂しい、つらいと感じることも大切にしていこうと思う。

確かに、苦しい、疲れた、寂しい、つらいなどと感じることはつらい。私の中には私がそのように感じているのだということをあまり認めたくない気持ちがある。私は無理に「なんでもないさ」と思うようにしようとすることもある。それに「こんなふうな場面では、他の人は苦しいとかつらいとは思わないのかもしれない」と思うと、私自身を情けなく思ったり責めたりすることもある。

けれど、そう感じるものはそう感じるのだということも大切にしていきたいな…と。他でもない私が感じることだから、その感じを大切にしようと(それを言葉にするかどうかということになると問題がずれてくると私は考えるので、言葉との関係についてはひとまずおいておく)。

で、ここのところ私は「疲れた」という気がする時は、「疲れたような気がするけれど何でもない。元気だ」ということをやめて、素直に「疲れた」と認めている。そこから「どうしようか?」と考えて、例えば寝るなどの行動にうつると、少し楽になったような気がする。

そう遠くない昔のような気もするしずっとずっと以前のことだったような気もする過去のある時には、私は自分が何をどう感じているのかわからなくなったこともあった。悲しいような気がするけれど悲しいと認めてしまうと立っていられなくなるような気がして、あまり悲しくないと思い込もうとしていたこともあった。そういうこともあった。でも心の中では何かもやもやとした感じが残った。

今は、そんなこともあったなと思う。そんなこともあるんだなと思う。これからもそんなことがあるかもしれないと思う。「よくわからない感じ」も含めて、私が感じたことを大切にして、私の速度で少しずつ生きていこうと思う。


差し当たり今は「腰が痛いな」と感じるので、湿布を貼っている。説明書きに「貼ると痛いことがあるかもしれません」という内容のことが書かれていたのだけれど、そう言えばやや痛い。昨日パソコンに向かって日記を書いていたときの座り方がおかしかったからだと思う。座り心地のよい椅子が欲しいなぁ。


今日は餃子を作った。野菜は水分が出てくるのでよく絞ることを覚えておこう。皮は私は既製のものを使うけれど、皮に包み込む作業はちょっとだけ得意。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)