冒険記録日誌
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2005年04月30日(土) 創土社版ソーサリーの翻訳について雑感を述べる

 創土社から復刊中のソーサリーシリーズですが、今月になっていよいよシリーズ最後の「諸王の冠」が発売されましたね。
 扶桑社の「火吹き山の魔法使い」と違って、こちらは注文して購入できているので少々新訳に対する雑感を言ってみます。
 蒸しかえすようですが、浅羽さんの新訳はやっぱり肌に合わないというのが私の最終的な感想でした。そこで冷静にそう感じてしまう理由を書いてみます。

 私の場合は固有名詞の変化(“レッドアイ”が“赤目”になるなど)は浅羽さんの新訳とわかった時点で最初から覚悟していたのでまあ許容範囲。
 それよりも英文を直訳したような文章がたまに見受けられるのが気になります。旧版より誤訳が少ないのは良いことですが、例えばアリアンナの家の描写では“緑のさまざまな色合いが微妙な対比をなす木陰という、絵になる場所に建つ小さな家”と書いていて、意味が分かり難くてかないません。初めて読んだ時はもう少し普通の日本語で書けないものかと、思わず考え込んでしまいました。
 さらに問題は「あとで役に立ってくれるかもしれぬ」「連中は騙されぬ!」「持っていなければこの術は使えぬ」などと文末に「──ぬ」とつく文章が多くて、この文体がどうしても私には合わないこと。
 なんというのかな。「──ぬ」という表現は、なにか昔の物語という印象がしてしまって、リアルタイムで冒険をしているはずの私はそのたびに物語から醒めてしまうのですね。
 私は昔は時代小説とかも読んでいたので、今までこうゆう文体の小説を見かけなかったわけでもないけど、ファンタジー小説(海外翻訳ものも含む)で「──ぬ」という表現はほとんどないですよね。いや、最近書かれた時代小説でもそう。これって単純に今の読者にはうけない古い文体だからじゃないかと思うのです。少なくとも私にはそうでした。

 まあ、そういう好みの問題を抜きにしても、浅羽さんの翻訳でこれは駄目でしょ。と思ったのは、その「──ぬ」という表現が2巻の「魔のワナの都」から採用されていたことです。
 私が最初、新訳に期待した一番の理由は「同じ翻訳者が全4巻を翻訳する」という点でした。1巻で“今夜は野営する”と書いていたところを、3巻では“今夜はキャンプする”と書くような用語の不統一がなくなるのは、歓迎することだと考えていたのです。実際のところ1巻の「シャムタンティの丘を越えて」が発売された時点では、私も結構新訳を気に入っていましたし、続刊の新訳も心待ちにしていたました。
 ところが2巻から、つまり物語の途中から文体が変わるのに違和感を覚えたのです。これは用語の入れ替え以上にヒドイことじゃないか、と。私の小説感からは受け入れがたいことでした。
 希望をいえば「シャムタンティの丘を越えて」の路線のまま最後まで翻訳していたら、きっと浅羽訳版ソーサリーも旧版と同じくらいにお気に入りになっていたと思うのですが、これならまだ「──ぬ」という文体を1巻の「シャムタンティの丘を越えて」から採用していた方がまだ良かったと思います。最初からなら好みはともかくとして浅羽訳のソーサリーはこうゆうものなのだ、と理解できたかもしれませんから。
 例えるならば、ソーサリーのジョン・ブランシェの絵が2巻から急に日本人イラストレーラーの書いた萌え系のアニメ絵に差し変わっていた感じとか。アニメ絵自体が嫌なのだが、使うなら1巻からしていればまだ覚悟ができたのにと。(笑)
 結局のところ、これではいったいなんのために浅羽さんが1人で翻訳されたのか、と創土社版の完成度に疑問を感じてしまったのは確かです。

 文句ばかり書いてもなんなので、逆に新訳で楽しめた点も書いておきます。
 それは旧版との違いがいろいろ比較できる点。いろいろ文句をいってみても、すでに持っている旧訳のまま復刊するより、新訳の方が新しく楽しめるというものです。
 とくに冒険の目的である「王たちの冠」の名前が「諸王の冠」に変わったのは私が非常に気になっていたところ。一言でいったら「諸王の冠」なんて名前が格好悪いと思うし。それがダイレクトに最終巻のタイトルにもなったわけだし。
 まあそんなことを思っていたわけですが、最終巻を購入したあと、終盤の魔王との会話シーンなどを読んでみると「王たちの冠」より「諸王の冠」の方が会話には自然に溶けこんでいるかな、とちょっと見直しています。
 文章やセリフなどの変化もそう。中には浅羽訳の方が面白いと思う箇所もあるので、要は慣れということで最近は納得する部分も増えました。
 アリのミートボールを(変異現)象団子としたり、黒エルフとの食事中に話す小話で“記述”と“奇術”と引っ掛けた洒落なんかは本当にお見事。
 ちょっと感動したのが、カレーの町に住むタコ男が料理を主人公に提供するシーン。旧版では“動物の腎臓の料理”としか書いていなかったのですが、実は動物は動物でも“棘々獣の腎臓肉”だったのです。こんなところでFFシリーズとの関連を感じさせてくれるとは思わなかったですよ。

 他に創土版ソーサリーが出たことに感謝しなければならないのは、やっぱり2巻のクーガ像のシーンにあるイラストに描かれた飾り板の「・・・あちこちにキスをして・・・」のメッセージが新訳で原文表示になり、本文で「・・・十字の果ては唇に・・・」とちゃんと謎解きのヒントとなる訳に改善されたところでしょうね。
 旧版ではヒントなしの難所だと思っていたので、ここがソーサリー最大の欠点だと長年思っていましたから。この誤解がとけただけでも新訳版がでた価値があるというものです。
 新訳は新訳で、3巻に登場する七魑魅の禁呪文の文句を英文ベースにしたために、旧訳と違って謎の意味が通じなくなったという問題点があるようですが、必須ルートではない分、ダメージが小さいからセーフということで。

 私が一番影響をうけた翻訳の差異が、プロローグ部分。
 悪の親分に関する説明が「カクババードをわがものにすべく野心を燃やしている、マンパンの大魔王」から「カーカバードの王となることを夢見ているマンパンの大魔法使い」となっているところです。
 大魔王って、何か人間離れした不気味で強大な悪という(指輪物語でいうサウロンみたいな)イメージがあったのですが、大魔法使いと書くとこれが実に人間臭く思えるのです。それに“王となることを夢見ている”くだりが、ちょっぴりメルヘンチックだし。(笑)
 善と悪の戦いには違いないのですが、世界の破滅から救う冒険から、世俗の領土争い(バルサスの要塞くらい?)に冒険の目的がスケールダウンしたような気がします。もっとも敵は人間だと思ったほうが、イメージが湧きやすいので“大魔法使い”とした新訳もこれはこれで新鮮な面白みを感じました。
 それに最終巻を読んだって、“大魔王”と“大魔法使い”のどっちがふさわしい表現かわからないんだよなぁ。

 まあ、なんだかんだいっても購入した値段分は楽しんでいますので、要は創土社の酒井さん頑張って、と無理やりしめておきます。


山口プリン |HomePage

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