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■ いろいろ考えた
小さく椿事がいろいろと。
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昨日は友人の家に遊びに行った。友人には10ヶ月になる男の子(N君)がいる。 N君と一緒に遊んだり、友人と話をしたり、お茶を飲んだりしながら過ごした。 テレタビーズ人形を擬人化させつつ遊んであげたら、えらくN君のウケを取ってしまった。ただ、んふっふっふっふっ、と言いながら人形を左右に揺らすだけなのだが、そのうちN君も一緒になって首を左右に動かしはじめ、さらにその後も思い出したようにひとりでやっていたりするのだった。 私としては、やりー、という気分である。
大人のひねくれと子供の素直さ、大人の素直さと子供のひねくれ、は、時々質が違うような気がする(もちろん共通する部分もあろうが)。 物事のいちばん最初に戻ってみたり、嘘をつくのではなく単純化して考えてみるとか、普段あまり使わない言葉を使って話してみるとか。私にはかなり面白い。 私には、となるところが私のコドモたるゆえんなのかも知れない。でも「私」は「誰か」ではないので、誰かのために、なんて言うのはおこがましいような気もするのだ。誰かのためになるかも知れないけどそうではないかも知れない、ということはあったとしても。 私はこう思う(で、あなたは)、ということなのだな。
のいと接することが私にとって楽しいのは、そこに自分の気持をいちばん単純かつ素朴かつ根幹の部分に戻そうとする働き(既にややこしいのう!)があるからではないかと思う。
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所用で滑川(なめりかわ)に行く。 ひとりでうろうろした(「うろうろ」というほどじっくり長くはいなくて、「うろ」ぐらいか)のは初めてだったのだれど、ふるい街の中を車で走ったりしていたら面白い風景に出会った。 家々に挟まれた狭い道をゆっくり走って帰った。目前に北陸道の面影を見るようだ。そのまま海沿い走っていると水橋(富山市東郊)に出る。 途中、「売家」の札が出ている家があり、とっさにバックして戻った(私以外、道を走っている車は前にも後にも対向車線にもなかったのだ)。その場所は今となっては不便だろうし、狭いし、このままでは日当たりも悪い。それに生活するとなれば昔ながらの伝統的なご近所づきあいも待っているだろう。いろいろな意味で大変だろうな、と思いはするのだけれど。 向かい合った家々の切れ目から海が見える、そういう通りである。
理想の家、理想の住環境って、人によりそれぞれなんだろう。
車を運転しながら考える。 そういえば昨日、のいはくしゃみしていたよなあ。 のいは「にゃー」となくけれど(人間の言葉とは違う言葉をはなすけれど)、くしゃみは人間とそんなにかわらない気がする。ちゃんと「クシャン」とやる。 そういえば「こんこんくしゃんのうた」(作詞・香山美子)では、
かばさんが マスクした おおきい おおきい おおきい おおきい マスクした こんこんこんこん くしゃん
などとあったけれど、カバのくしゃみもクシャンなのかなぁ、 カバの言葉はどんななんだろう、 ゾウは、リスは、ツルは、ブタは、
などと、海辺の道を走りながら。
2004年05月13日(木)
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