無料ホームページ  林 檎 で あ  (すっぴんタイプ)

ヤプログに切り替えてみました写真附ミニ日記** 
奇特な方はドウゾ。隱し前略プロフィルにて生々しい,珠恵の生態が知れます。
当方は,Myエンピツは,非通知設定です。
残念ながら,追加してもらった人の日記は,更新される毎に読んでいます(照)探さないでください★



mail

home

bbs

│←複雑怒涛の5日間と救命救急に入院しての記憶。→│

今回のことで、人に助けられ、人に迷惑をかけ、人に必要とされ、人に感謝しています。


**
これはすべて私の記憶ではなく、
後から母に聞いて書いたものです。
**
 致死量など、とうに超えていました。
私は死んでしまったのです。
@後から母に聞いて救命救急での主治医が仰っていたことには、
「だいぶ飲んでますから、今のところは意識が戻るか戻らないか解りませんが。
致死量は人によって違うということを知っておいてください。」


生きなければならないと気を張っていないと
自分のする行為に押し潰されそうで在りました。
私が私のために、私が死ぬために、今日は日記を書きます。

 書いていない間、71票も投票を戴きありがとう御座いました。
決戦を終え、今までの自分の神様に勝利。
まだまだ世間知らずの私は、これからはなにか始めないといけないと
想っています。


+はじめに+
20日の薬を飲んだ後から24日まで、記憶は
すべて消え去っています。25日も無いかも知れません。うっすらと何かを覚えています。
かなり長くなっています。
どうぞ眼を大切に、疲れないように読んで下さいませ。


20日14:19
ベゲタミンB102錠ハルシオン4錠マイスリー46錠トレドミン13錠ルジオミール66錠をじゃらじゃらと服薬。
   17:30ごろ 母が帰宅しベッドに倒れている私を見て蹴ったり叩いたりしたけれども起きず、やむを得ず母は

救急車を呼ぶ。
N病院へ搬送される。

ある心霊現象のようなもの。(母談)

20日、23:32と23:35(プロパティ参照済み)にN病院のICU(集中治療室)で
自分自身の携帯で撮ったとみられる
私の青白い、横顔。
ベッドに横たわって、手はだらんとし、
心電図をとるためのものをつけている。
私(本邦初公開、もう一枚は恐すぎて掲載不可と見なしました。デブです。)

私の携帯にその画像が現れたのは、救命救急センターICUで私は昏睡状態の
22日22時ごろ。
ダウンロード画像として。(誰も保存などしていないのに)
救命救急センターの前で母が待つ車の中で
母が発見した。
しかも妙なのだ。発見の仕方が。
携帯の着信が七色に光り、サブ画面に私のその写真が出たのだ。
在り得ないことだ。
メィルを受信しているわけではないのに七色に光る着信ランプ。
サブ画面に映る私の写真。

私は死の淵を、とぼとぼと歩いていたのかもしれない。
右か左か、どちらにしようか迷っていたのかもしれない。
急に涙がこぼれそうになる。

しかし写真は、自分の携帯で撮ったとしか思えない。そうして、
ICUで二枚も写真を撮れるはずが無いと疑問が残り、
ICUにはその時間、誰も居なかったし、携帯は家に在った事が
気にかかる。
 魂が抜け出てしまって見た自分の姿で、その念が携帯に写真として自分を映したのだろうと母は言う。





22日くらい
一向に起きる気配は無く、胃洗浄なしに、看護婦の婦長さんに入院計画を渡されて、
「三日ぐらいして起きたら、すぐに退院できます。」と言って。
 一安心。
しかし依然として昏睡状態は続いていて、母は私が自分の舌を呑み込んで窒息死しないように
私の舌を、何分おきに引っ張ってくれていた。
 (母談)

(この時間のあいだの経過は判りません。)

また回診に来た医師が、触診をし、顔色を変え、無言で詰め所に戻っていって
1分ほど経ち、母を詰め所に呼び、
「ここの病院ではどうしようも出来ません。(死ぬしかない)
 CPKの値が高く、普通100程しかない値が20000もある。」
と。
母は発狂したそうです。
熱など出たことの無い私は入院してからずっと40度の熱、
瞑った眼をこじ開けて光りを当てるが、瞳孔は天を見つめたまま開いた状態。
そうして
22日11時ごろ 私の身体は、N病院から「救命救急センター」へ、搬送。ICUへ。
(母談)

薬物中毒+誤嚥性肺炎、床ずれ(動かない状態だったため)*併発。
救命救急センターでも、主治医に
「生きると言いたいけれど、意識が戻ると言いたいけれど、今は五分五分です。」と言われるが、祈りとともに
昏睡。ICUで過ごす。

CPKの値(阪神大震災などで瓦礫の下の人々に猛威を振るった。正常の人は100であり、私や阪神大震災で亡くなった人々の数値は、20000を超える。足の上に瓦礫などが乗ったままで筋肉が圧座され、悪くなると腎臓など悪くして死んでしまう。)が高く、其れがいま、歩けない原因でもある。

23日深夜、私はぽっと眼を開け、
4人部屋へ。
それからは、信じられないほどの回復力を見せる。
**24時間打ち続けられる点滴は27日に取れ、
その前後に尿管カテーテルも抜いてもらいました
最初の便とその次が、黒く、活性炭を身体の中に入れて毒素を吸着したことを物語っていた。**

私は悪い子なので、途中でベッドの位置を、シャッフルされるなどして、
ナースステーションから見える位置に移動させられたり。
大きな窓が遠のく。



入院中に書いた事柄
***
地位も名誉も富もいらない。
あたしは、自分にかかわってくれた全ての人が誇りに想ってくれるような人間を創り上げたい。
それが何よりもの目標。

鎖で繋がれているこの足を、
いつかは解放しなくてはと
いつも解放してあげなくてはと
思ってはいたものの、
自分はヒトツの鎖も外せずに、ただ、鎖を外されて自由のみになった時を想い、
その臆病さにまかせて、
いくつも附く重い鎖を
外せずに...。

しかしながら、自分は今、思うのだ。
今こそ、鎖をすべて切り落とすべき瞬間だ、と。
すべての絶望から、自分は解き放たれるときぞ。
そう思うのだ。

あたしは生きていかざるを得ない。
人間として、日本人として、女性として、
これまで息をしてきたのだから。
もう、雑草ではないのだ、自分は人間だ。人間に生まれた。
これからは、この、あまりにも小さい羽根で、もっと大きく羽ばたいて良いのだし、
邪魔するものは何も無く、恐るるものも何も無いのだから。

目標を生きるために、
今、生きていなくてはいけないのだ。
すべては、ここから。


[記憶に無いのに書いたこと]小説のような夢を見た。私の夢ではない。あの太宰の夢を、その語り口調で見たのだ、何度も何度も。{きっとこれは自分が昏睡状態にあったときに見ていた夢です}


心が酸化してゆく。そんな状態だ。
ある女性から贈られた星の王子さまのポストカードを
昏睡の私の枕元に、母は置いてくれていた。
このポストカードと、私を思う人々の想いが無ければ、
再来は不可能だったと思われる。
感謝している。本当に。

***



↑ ★投票釦。メッセージ。これからも私を応援してくださる方は、どうぞ続きを読んでください。



29日
救命救急センターからK病院へ転院。
そのためにK病院へ受診しに行く。しかし
K病院の雰囲気と医師の或る発言に堪えられなく、
鬱病チェックみたいなのもやらされたので
「入院したくない」と言い、
三回も針を刺され、一時間ほど点滴を。
CPKの値が正常まで下がらないと腎臓透析せねばならないので、
これから毎日点滴に来るように告げられる。(それだけで良いなら…)
そのあと、気になるゆたかクリニックへ。

***
あたしは死んでしまった。
もしも高校三年生を留年していたら、あたしは死んでいなかったと思う。
まだ、苦しみながら昨日に縋りついたままで生き続けていたのだと思う。
本当にそうなのだ。


PCを立ち上げたとき、今まで無かった情熱が舞い戻った。


★ゆたかクリニックにて。想ったこと。

いつもならメスを片手にしなければ、待合室で居ることは
不安で堪らなかったはずだ。
それなのに今日は何も考えずに受診する事が出来たし
少し胸の当たりが気持ち悪かったのだけれど
それは、お昼御飯を定刻に食べていないからだと言われたのでそう思い、
もとこたん(主治医)の顔はいつもより熱を持っているようにかんじた。

車椅子上パジャマ姿の私に抱きついてくれたり、膝を触っていてくれたり、
もとこたんの眼は涙を溜めているように見えた。
「よかったぁ」
と言ってくれた。言葉が出ない。彼女が、可愛い可愛いもとこたんが
母から後で聞かされたのが、もとこたんは泣いていたと言う。
「…19日の日に、気附いてあげられなくて…○○さん(私の名前)と一緒に
 勉強しなおします。本当にごめんなさい。…」
でも、もとこたんの所為ではないのです。私の所為だったのです。
 悔しすぎるのは、もっともの事。私は自分を守るために、強く在り続けなければ。
これからは薬はイラナイと言いました。今はもうみたくないし飲みたくないのです。

/★


希望さえあれば生きていける、
そんな言葉はあたしの口から出ることはこれからもきっと無いだろう。
しかし、心は前を向きたがっている。
そして時折
後ろを振り返っているが
追い風がきつすぎて、あたしの身体は前を向こうとしかしない。
今はその時なのだ。




一日に何度泣いたら気が済むのだろう。
大きな決断をすると同時に、
泣いて過ごす毎日と
眼を瞑ると自分は死んでしまうのではないかという恐怖と。

それでは決断した意味がないのではないか。
もっと強くならなければならない。私は死んだのだ。これからは
普通に生きてゆけるのだ。生きてゆかなければならない。
私には、時間がなく、
早く死んでしまうわけではないけれど、
自分を信じるしかなくて、周りは棘ばかりが広がるような茨の道。
でも、不安に駆られて歩かないわけにはいかない、
今こそ進まなければ。
今こそ輝かなければ。


今日は退院してきて、とてもとても強い決断を、
一週間掛けてやっとしたところなのに、
どうして私はこんなにも脆いのだろう。弱いのだろう。


私は恋愛など望んでいない。
自分に人を好きになれるか?貴方は私を好きになってくれても
私はきっと誰も好きになんかなれそうもないから。
悲しくなる、自分の心が。
好きという気持ちは湧いて出てくるもの。だから心配しなくていい。
胸いっぱいの悲しさは、私を変えてくれる一滴になる。

ゆっくりでも、壊れた心の破片を拾い集めなくては。



インターネットが毒なのは、それを使う自分自身の心が、どこか欠けているだけで、
それ自体に問題があるわけではないのだろう。


根っからの大阪人なのに、大阪の言葉で日記を書けない私。
心のどこかで常に標準語に憧れているからかもしれない。
自分が自分である事を否定したかったからかもしれない。
自分の普段使う言葉はあまり人の耳に入れたくないのだ、なぜかと言うと、
汚すぎる言葉だから。
私は言葉だけでも綺麗に表現したくて、標準語にもなれない中途半端な大阪弁の日記を
これからも書き続けるだろう。
藤原紀香を尊敬する。
***

入院中の出来事、そして想ったこと。

 私が救命救急センターに入院した一週間に、
4人の方が同じ場所のICUで亡くなった。
夜、人を亡くしたときの叫びを聞いてしまった。
今でも耳に焼き付いて離れない、叫び声。

 同じ病室に1人の女性が農薬を飲んで運ばれ、私より先に
元気に退院していった。
その女性のお父さんのお話は強く感動的で、
密かに盗み聞きしていた私は、涙が止まらなかった。

 やさしく接してくれた・或る看護婦さんに
ベッドの上で文章を必死に白い紙に書いているのを見られ、
看護婦さんは忙しいのに、私のようなものと話をしてくれた。
話しの最後に、
「私に詩を書いて頂戴♪一句♪」とお願いされる。
想ってもみなかった事なので、自分に人に贈れるほどの物が書けるかどうかは
いささか心配であった。
彼女を想い、私を想い、涙が沢山零れる。私は、彼女のようになりたい。
人に優しさを分けることのできる職業はあまりにも魅力的だ。

悩んで悩んで
転院の日になってやっと完成した
その看護婦さん宛ての手紙。

手紙と一緒に贈った一句を、ここに紹介したいと想う。(絵は、持ってきていた色鉛筆で。)

母が救命救急センターの外へ持っていって、わざわざ写真を撮ってくれました。

私は今、とても幸せな気持ちです。
全ての人に感謝しています。



↑ ★投票釦。気分が良ければどうぞ続きを読んでください。ありが十々。




一週間で7キロ減の不健康なダイエットに成功し
経過は良好。毎日点滴通いだけれど。
来月末には、歩けるようになると思います。


今日の日記は経過報告だけ書きました。
自殺を図った原因については、また後ほど。

§2003年05月30日(金)§

old

list

future



↑エンピツ投票ボタン★押すと続きが出ます!!

ダイメイヲクダサイ クェートの方
Design by shie*DeliEro
お財布
Picture by 霧原ユキ*BorderLine Syndrome




I eat apples. <ァィ,ィート,ァポーズ。>

SINCE 2005.4.13 COUNT THANKS

珠恵との相性チェック Lilypie Kids Birthday tickers