.第7話:「やさしいキスをして」 Α Side:Honnami)

 こんなにぐっすり眠れたのは、久しぶりかもしれない。
 だからこそ気づけなかった、瞳子がいつのまにか出て行ったことに。

 すっきりした気分で目がさめると、すでに時計は8時を過ぎていて、ふと横を見ると瞳子はいなかった。すっかり熟睡してしまって、瞳子がいつ起きていつ帰ったのか、全然気がつかなかったのだ。
 
 …いや、ひょっとしたら昨夜のことは夢だったのか?
 俺が瞳子を求める余り、膨らんだ妄想が見せた幻だったのか?…そんな風にさえ思えてきて。
 夢だとしたら、余りにも性質が悪い。
 瞳子の声、彼女を抱きしめた感覚、彼女の香水の香り、子供のような寝顔…あれが全て夢だというのなら。


 夏休みとはいえ、教師に休みはないわけで。
 とにかく風呂でも入って気持ちを切り替えよう…そう思いながら風呂場へ向かうと、キッチンのテーブルの上に、朝食の支度がしてあった。…その横には、瞳子が残したメモ。


 
  おはようございます。
  余りにもぐっすり眠っていたので、起こさずに帰ります。
  簡単なもので申し訳ないのですが、よかったら食べてください。
  玄関の鍵はドアポストの中に入れましたので確認してください。
  昨夜は久しぶりにみんなと飲めてうれしかった。また行こうね。

 
 次の瞬間、俺は風呂のことなど忘れて彼女が作ってくれた食事を一気に食べた。
 瑶子が逝ってしまってから、「誰かに作ってもらった朝食」など、ほとんど縁がなかった。
 夢中で食べたその食事は、おそらく牧島の家の味付けなのだろう、かつて瑶子が作ってくれたのと同じような味付けで…いや、こういっては何だが彼女が作ったものよりはるかにおいしかった
 そういえば瑶子はずっと病弱で、義母さんが彼女にかかりっきりだったから、瞳子が小学生のころから主婦の役割をしてた、ということを思い出した。大人になってから家事の一切を花嫁修業で身につけた瑶子に比べたら年季が違うというわけだ。 
 
 幸せな気分で食事を終え、風呂に入って出勤の準備をしに寝室に戻ると、ベッドのあたりで何かがきらりと光ったのに気がついた。
 ベッドサイドのテーブルに置き忘れてあったそれは、昨夜俺が外させた瞳子のピアスだった。
 
 …ああ、やっぱり夢じゃなかったんだ。
 瑶子には悪いと思いつつも、瞳子をこの腕に抱けたなんともいえない幸福感を俺はかみ締めていた。
 
 …瑶子、お前はこんな俺を見てどう思う?きっと、怒っているんだろうな。俺はふと、瑶子の写真を見つめる。
 昨夜、瑶子が見下ろすこの部屋で、俺は瞳子を抱いた。
 どんなに言い訳をしても、瑶子を裏切っていることには変わりない。何せ瑶子が生きているときから、俺は瞳子に惹かれていたのだから。


 とにかく、このピアスは瞳子に返さないと。…とはいえ、出勤時刻が迫っていたから、牧島の家には帰りによることにして、俺は職場へ向かった。
 瞳子もあと1〜2日ぐらいはこっちにいるだろう、このピアスを返すのを口実に彼女に会って、改めて彼女と食事でもしよう。そんなことを考えながら。


 夕方、仕事を終えて牧島家に向かうと、庭先でお義母さんが水撒きをしていた。

「あら、佑哉さん!昨夜瞳子があなたのところにお邪魔したんですってね?」
 こちらが挨拶する前にお義母さんに声をかけられ、俺はすっかりうろたえてしまう。何で知ってるんだ?まさか昨夜のことがばれたのか!?俺が内心冷や汗をかいていると。

「なんか、お友達みんなであなたのところへ押しかけたんですって?酔っ払いばっかりでうるさかったでしょ??
…もう本当にあの子ったらあなたに迷惑かけてばっかりで本当にごめんなさいね」

 …なんだ、そういうことか…俺はほっと胸をなでおろす。朝帰りした彼女は、お義母さんにそんな言い訳をしたのだろう。

「いえいえ、出先で瞳子ちゃんたちに会って。僕も久しぶりだったもんですから、ついつい彼女らを引き止めて遅くまで飲んでしまって…こちらのほうこそご心配かけてすみません」俺はしれっと嘘をつきつつ、本題を切り出した。
「ところで、瞳子ちゃんいます??」
ところがお義母さんから帰ってきてのは、意外な返事だった。

「あら、瞳子から何も聞いてなかった?
午後の飛行機で東京に戻ったわよ、一日くらいは向こうでゆっくりしたいから、って。瞳子がどうかしたの?」

…帰った、だと?じゃあ次に会えるのは、来年ってことか??

 内心愕然としつつ、俺は例のピアスをお義母さんに託そうと考えた…がやめた。
 次に会うときまで、このピアスは取っておこう。次に彼女に会う口実に使おう。そんな考えを一瞬で頭の中ではじき出して。

「いや、昨日飲んだメンバーの一人が忘れ物して、瞳子ちゃんから渡してもらおうと思ったんですが…
帰ったのだったら直接本人に返しますよ。すみません、お義母さん」
そんな嘘の言い訳をしながら、俺は牧島家を後にした。


 家に帰って、俺は瞳子のピアスを失くさないように、貴重品がしまってある引き出しの中に収めた。
 瞳子は東京に帰った。最後にもう一度、会いたかったのに。そんな思いがぐるぐると心の中を廻る。多少遅刻してもいいから、今朝牧島家によってから出勤すればよかった…そんな少しの後悔とともに。


 まだ少し、瞳子の香水の香りが残るベッド。
 そこに横たわって、伝わってくる彼女の残り香に浸りながら、俺は昨夜のことを思い出していた。

 手に入れられないと思ってた、彼女のそばで義兄として彼女を見つめていられればそれでいい、と思っていた瞳子の存在。
 一方で、一度でいいからこの腕で抱きしめたい、そんな欲望に駆られて、伸ばしかけた腕を何度引っ込めたことか。
 そんな正反対の願望を抱えて、遂にそれを叶えることができた昨日の夜。

 …一度でいいから抱きたい、そんな気持ちは嘘だ。 
 実際手に入れてみて、改めて思い知らされた彼女への強い想い。
 一夜明けて、もう「次」を期待している。

 今日ピアスを返そうと、もし彼女に会えていたなら、俺はどんな態度で彼女に接したんだろう。
 あくまでも、あれは酔った勢いでのこととシラを切りとおそうとしただろうか。
 それとも今度は夢だと間違わないように、改めて彼女を抱こうとしただろうか。悶々とした気持ちで、俺はそんなことを繰り返し繰り返し考えていた。


 
 一度抱いたぐらいでこの気持ちが晴れるのなら、
 ずっと抱いてきた彼女への歪んだ恋心を昇華させることができたなら、どんなに楽なことだろう。
  
                                                          (Г愨海)

2005年03月26日(土)


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