では、事象に惑わされるのが宜しいのか。
では、金銭に一喜一憂し異性に翻弄され、賞に階級に土地に欲求を刺激される、のが宜しいのか。
あるいは、孔子は言った、聖書にある、コーランが唱える、先人は、という精神性に惑われるのが宜しいのか。
どちらも惑わされるのは同じことで、どちらも自らが捉われることなのだ。
ならばしかし、如何様にすれば良いのか。
欲に捉われず生きれば良いのか、欲に生きれば良いのか、無欲に生きれば良いのか、高度な欲へと昇華すれば良いのか、全ての観念を捨て去れば良いのか。
この矛盾した生命体は、数学的表示されたソフトのように形成出発地点が既にない。インターネット上のウイルスのように、工学的に形成されたロボットのように、目的も初期的な意図も我々の願望すら、明快ではない。ロボットやソフトが生まれ出でて、出でれば出でるほど、鮮明に輝く生命の光。
闇に瞬く光は、益々遠く大きく
我々を帰結の無い苦しみへと、我々を偉大な大空へと、運び去る。
この飛躍感こそが生命の尊厳であるのだ。
事象という空気中の水分に、矛盾が照らし輝きだす七宝の輝きこそが、生命の尊大と傲慢と虚無と下らなさと憂慮と浮遊感と臭骸なのだ。
最底辺にこそ、無邪気が遊んでいるのだから。
注記;「惑(まど)わされる」、「宜(よろ)しい」、「一喜一憂(いっきいちゆう)」、「翻弄(ほんろう)」、「捉(とら)われる」、「如何様(いかよう)」、「昇華(しょうか)」、「明快(めいかい)」、「出(い)でる」、「鮮明(せんめい)」、「輝(かがや)く」、「瞬(またた)く」、「帰結(きけつ)」、「飛躍感(ひやくかん)」、「尊厳(そんげん)」、「七宝(しっぽう)」、「傲慢(ごうまん)」、「虚無(きょむ)」、「下(くだ)らなさ」、「憂慮(ゆうりょ)」、「浮遊感(ふゆうかん)」、「臭骸(しゅうがい)」、「無邪気(むじゃき)」
注記弐;「イノセンス(innocence)」:無罪,潔白,純潔,無邪気,純真,単純,無知,無害 映画イノセンスも意識。
執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.3.22)