観念が、観念の総体が押し付けて離さない。
グミのようにぬらぬらとした丸い形状の私の根底の上に、
観念という黒く透明の下敷きが圧(の)し掛かって乗りかかっている。
丸い形状は、息苦しそうにバタバタとではなく、細胞のように伸ばされうにょうにょと喘(あえ)いでいる。
その観念を通してしか、黒い下敷きを通してしか観えてこない、この世界。
下敷きへの乗りかかりでしか重さや形が解らないもどかしさ。
生々しずぎる香りや食感が伝わる気はしないのだ。
下敷きをカントのように唯一絶対の定め、と思い込めば良いのだろうか。
けれど、超然と下敷きを拒否した人々もいる。
下敷きを持たない生活をさせてもらっている赤ん坊もいる。
もっとグミの外皮のような生物学に基づいた膜に取り換えられば、と思う。
気分のまま、生きられたら、それは人間ではないのだが。
私のまま、生きられたら、それは神でしかないのだが。
世界を支配する全能感が現実になったら、それは夢と変わりはないのだが。
理を理として認識する観念と、理そのものの観念を生み出すグミの外皮と。
情を譲渡して成り立たせる肉体と、肉体を動かす「私」という絶対的な独尊と。
聖を聖として成り立たせる理情と、二元という区別の先を塞(ふさ)ごうという生得的で常識的で狂気を欲する気違いと。
3つに気がつかない、3つに気がつかない、3つに気がつかない、
そのことの安逸(あんいつ)が、私の前を漂(ただよ)い、私を誘(さそ)う。
誘われて社会不適応者になって病院に行くもよし、留まって観念の総体に虐(いじ)められるもよし、
超然として捨て人として探求するもよし、何かの欲のために生きるもよし、
ただ、見つめ、三元のまま永遠に永遠へ赴(おもむ)くも良し。
私は理解したいのであって、
次に理解して欲しいのであって、
次に理解の初動因に還ったのであって、
最後には初動因と、初動因を分析する観念の総体に飽(あ)きて、
新しくチャレンジしたいだけだ。
次は何だ。
次は何処だ。
次は何時なんだ。
次は人間なのか。
次はどうして飛び込むんだ。
あの山は、まだまだ煙(けぶ)り、私の心を惹きつけている。
桶火(おけび)の灰になってからなのですか。
強風に載せられて飛んで行くしかないのですか。
早音(さおと)への憂慮(ゆうりょ)と誘惑が、まだ、残っているからなのですか。
注記 「絶巓(ぜってん):山頂の意味」
執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.3.5)