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「 科学の絶巓(ぜってん) 」 −「 早音�供 廖�
2004年03月02日(火)



 観念が、観念の総体が押し付けて離さない。
 グミのようにぬらぬらとした丸い形状の私の根底の上に、
 観念という黒く透明の下敷きが圧(の)し掛かって乗りかかっている。
 丸い形状は、息苦しそうにバタバタとではなく、細胞のように伸ばされうにょうにょと喘(あえ)いでいる。
 その観念を通してしか、黒い下敷きを通してしか観えてこない、この世界。
 下敷きへの乗りかかりでしか重さや形が解らないもどかしさ。
 生々しずぎる香りや食感が伝わる気はしないのだ。
 下敷きをカントのように唯一絶対の定め、と思い込めば良いのだろうか。
 
 けれど、超然と下敷きを拒否した人々もいる。
 下敷きを持たない生活をさせてもらっている赤ん坊もいる。
 もっとグミの外皮のような生物学に基づいた膜に取り換えられば、と思う。
 気分のまま、生きられたら、それは人間ではないのだが。
 私のまま、生きられたら、それは神でしかないのだが。
 世界を支配する全能感が現実になったら、それは夢と変わりはないのだが。
 
 理を理として認識する観念と、理そのものの観念を生み出すグミの外皮と。
 情を譲渡して成り立たせる肉体と、肉体を動かす「私」という絶対的な独尊と。
 聖を聖として成り立たせる理情と、二元という区別の先を塞(ふさ)ごうという生得的で常識的で狂気を欲する気違いと。
 
 3つに気がつかない、3つに気がつかない、3つに気がつかない、
 そのことの安逸(あんいつ)が、私の前を漂(ただよ)い、私を誘(さそ)う。

 誘われて社会不適応者になって病院に行くもよし、留まって観念の総体に虐(いじ)められるもよし、
 超然として捨て人として探求するもよし、何かの欲のために生きるもよし、
 ただ、見つめ、三元のまま永遠に永遠へ赴(おもむ)くも良し。

 私は理解したいのであって、
 次に理解して欲しいのであって、
 次に理解の初動因に還ったのであって、
 最後には初動因と、初動因を分析する観念の総体に飽(あ)きて、
 新しくチャレンジしたいだけだ。

 次は何だ。
 次は何処だ。
 次は何時なんだ。
 次は人間なのか。
 次はどうして飛び込むんだ。

 あの山は、まだまだ煙(けぶ)り、私の心を惹きつけている。

 桶火(おけび)の灰になってからなのですか。
 強風に載せられて飛んで行くしかないのですか。
 早音(さおと)への憂慮(ゆうりょ)と誘惑が、まだ、残っているからなのですか。


注記 「絶巓(ぜってん):山頂の意味」
 

執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.3.5)



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