きよこの日記

2004年03月10日(水) 好きと嫌いの論理

私の学校の職員室は人間関係がよくないです。
教師なんて、人間関係を調整してなんぼの商売のはずなのに、自分のことになると、子ども以上に子どもじみた行動にも気づけなくなってしまうのですね。
あちらで仲間はずれ、こちらでいじめ、かげぐち。
私は職員室の人間関係なんて教室の人間関係に比べたら大して重要ではないって思っているから、そういう問題にはなるべくかかわらないようにしています。
でも、同僚の先生の愚痴を聞いたりするから、間接的に私もそういういざこざに加担しちゃっているんでしょうね・・・。


同僚の先生が、その日どれだけ相手がひどいことをしたか、仕事をしなかったか、ということを私に事細かに説明してくれるのを聞きながら、思うのは、
「結局、とにかく、どうしても、嫌いでしょうがないんだね」
ということです。

「好きという感情には理由などないけれど、嫌いには理由がある」って言います。
誰かを好きになる(恋愛、それ以外にかかわらず)、何かを気に入る、というのは理詰めではなく、とにかく自分の心の中に“好きだ”という気持ちが厳然と存在しちゃうんですよね。
好きだから好き。
誰かにその気持ちを伝える時だって、「あの人のほうからいつも話しかけてくれるから好きなんだよね」とか、わざわざいうことはないだろうと思います。

でも、同じように感情の問題でありながら、嫌いについては、とかく理由をつけたくなるもののようです。

「私のほうをいつもにらむ」とか、「私にだけ冷たい」だとか。

多くの場合は思い過ごしか、はたまた、その人を嫌う自分の姿がその人に投影されてしまっているか。
だけど、もうそう思い込んでしまったら、論理的に正しいかどうかなんて関係なくなっちゃうんですよね。
同じようなずるをしても、自分の好きな人なら許せるし、自分の嫌いな人がすれば気に食わない。
給食のあまりが職員室に午後残っていたりします。
それを生徒が帰ってから男の先生が食べると
「あいつに食わせるぐらいなら捨てちまえ」と陰で言う人がいます。
56歳の事務の先生です。

それだけお年を召しながら、そういう程度の低いことをいうなんて、情けないですよ。


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