| 2003年12月01日(月) |
小池真理子『午後のロマネスク』 |
ちょっと電車に乗ったときに、キオスクで暇つぶしに買った本。 まったくもって暇つぶしチックな掌編の数々。
だけど、ひとつ心にひっかかった作品「声」
屋根裏の座敷牢に男は女を隠している。 男はその女を、いや、その声を独占するためにそこから女が外に出ることを許さない。 女は天上の声を持っていた。しかし、その顔は見てはならない、二目と見れないひどく醜い顔をしている。 だから、男は暗い座敷牢にろうそくをもって入っていくときには、女に後ろを向かせて顔を見ずにすむようにした。 そして、女への想いがつのり男は、自分の目をつぶすことを決意する。女の顔を二度と見ずにすむように。
その瞬間、すさまじい轟音と爆風が男を襲った。 古くなったプロパンガスのボンベが爆発したのだ。
「女が泣きながら、助けを求めている。白い太股のあたりに、怪我をしている。赤い血が一筋、生命の証であるかのように、その陶器を思わせるなめらかな肌を染めている。 だが女は顔に傷を負ってはいない。女の顔は相変わらず醜くて、醜さを隠すための血にまみれてもいない。 その女の顔が、茫然と見上げている男の目の前にある。女が口をぱくぱくと開けている。何か言っている。あの美しい声で、あの艶かしい声で、何か言っている。 だが、男には何も聞こえない。 爆風で視力ではない、聴力を失ってしまった男の目に、泣き叫び、欲望を刺激する声をはりあげているであろう女が、白々とした朝の雪明りの中、無残な顔をさらしているのが見える。」
人が人を好きになるということについて、考えさせられます。 好きということは、その人の容姿なり、性質なり、何かの要因によって好きなのでしょうか。 男にとって、女の声こそが愛の対象であり、それが聞こえなくなった今、男はきっと女を捨てるだろう。
例えば、その人の顔が好きだという場合、突然の事故で顔に大きな傷を負ったらどうだろう。 その人の作る料理が好きだという場合、突然の事故で両手の自由を失って料理が作れなくなったら。 二人のこれまでの思い出、積み重ねがあるから好きだという場合、突然記憶喪失になってしまったら・・・。
もちろん、この男のような例は極端で、「〜だから」と一言で理由をいえるような単純な問題ではないとは思います。 「好きだから好き」 という、子どものような理論に結局は帰着するのが自然だろうし、そういうもんだろうと思います。 何かの条件で人を好きになったり、人に求められることはさびしいです。
ひねくれものの私は、わざと自分の中の好かれそうなところを隠しておいたりします。 「料理はよくする?」 「あんまりやらないかな」と私が答えたとき、相手がなんだか、がっかりした様子だったりする。 「好き」に、「料理をよくする」という条件が必要なんだなあ、と、へんにさめた気持ちになります
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