宿題

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2005年04月11日(月) 高田渡◇友部正人より(4月18日)/友部正人
4月16日の朝に高田渡の訃報を聞いてから、今日までは長い一日だったような気がします。渡の危篤については、4月5日に聞いて知っていたのですが、途中持ち直したという話もあったりして、まだまだ大丈夫、とぼくは思っていたのでした。
今日のお葬式のことは16日の夜に連絡をもらいました。ぼくは17日に九州の柳川でライブがあって、18日の午後に飛行機で戻って来る予定だったのですが、急遽それを変更して、17日のうちに日帰りをしました。幸いにも柳川のライブが午後4時からだったので、福岡空港からの最終便に間に合ったのです。

柳川のライブは中山という町の公園でありました。この公園の藤の花はとてもきれいだそうですが、今年は咲くのが遅れていて見られませんでした。でもだだっ広い公園には模擬店もたくさん出ていてとてもにぎやかだったし、ステージの前の芝生では数十人の人たちが、暑さにもめげずに熱心にぼくの歌を1時間半聞いてくれました。

渡のお葬式は、吉祥寺カトリック教会でありました。倒れた釧路の病院で洗礼を受けた渡はパウロ・高田渡になったのです。教会は悲しみに包まれ、一歩足を踏み入れたとたん、ぼくもその悲しみに逆らうことはもうできませんでした。お通夜に行かれなかったぼくとユミは、友人に勧められて、セレモニーが始まる前に棺の中に横たわる渡に会いに行きました。渡の顔は、地面に散った花びらのようにしわしわでした。だけど苦痛の跡はなく、ぼくもユミも無言で長い間、その静かな顔に見入ってしまうのでした。
渡は自分が歌う「私の青空」に送られて、霊柩車で火葬場へと運ばれて行きました。最後にお別れの拍手が霊柩車の周りで沸き起こったときは、まるでコンサートのようでした。もう誰もアンコールとは叫びませんでしたが。

16日からの長い一日は、火葬場で渡の骨を見た瞬間に終りました。渡の骨をはしでつまんで骨壷に。そのとき何人かの人たちがしたように、ぼくも骨の小片をハンカチにくるんでポケットにしまいました。教会に戻ったぼくたちは、みんなと一緒にそのまま「いせや」に。教会の神父さんが、「いせやのカウンターは高田渡の祈り台だった」という話はおもしろかった。お葬式の後はみんな一人になりたくないのか、「いせや」で飲んでそのあとは「のろ」に移動し、そこでもいつまでも一緒にいるのでした。


★高田渡◇友部正人より(4月18日)/友部正人★

マリ |MAIL






















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