singersong professor KMの日記

2005年11月25日(金) 「カリスマ」への期待

 世の中が乱れてくると、人は「カリスマ」の出現を望み、これに期待を寄せるようになる。「カリスマ」はその意味で、ウェーバーの言うように、世間が「つくりだす」もののようだ。クラーナ「カリスマ幻想」(税務経理協会)は、そのサブタイトルに「アメリカ型コーポレートガバナンスの限界」と銘打っているように、現代アメリカ企業の病弊として、そのような「カリスマ幻想」をあげている。

 これはアメリカ企業に限らない。最近の日本の政治で、なぜ小泉首相率いる自民党が圧勝したのか、それはまさに小泉首相に「カリスマ」を見たからだろう。偉大でなくても「カリスマ」を期待している人々は彼を「カリスマ」にしてしまったわけだ。

 クラーナの前記著書ではアメリカ企業のことについて書いているが、日本企業、日本の経営学、でも同様の問題がある。企業の方はまだ健全で、むしろ「経営学」の方が怪しい。カルロス・ゴーンのような「カリスマ」が出てきたので、みんなそれに飛びついている。先日も書いたが、カルロス・ゴーンが光るのは、それを支える有能な日産社員がいたからである。設備もあった。当時足らなかったのはカネでこれをルノーが出したわけだ。中小企業ではそうはいかなかっただろう。経営学の教科書や経営書は、しばしばリーダーシップを論じ、そのリーダーが何もかもをやり遂げるように書いてある。

 確かにトップの役割は大きい。それは否定しない。けれども、武蔵野の小山社長にせよ、我々の先輩である伊藤製作所の伊藤社長にしても、確かに良きリーダーであることは間違いないが、ご両人とも「儲かる仕組み」づくりを強調されている。トップの役割は大きいが、その周辺に人材を得なければ、組織が作られていなければ、競争力のある設備や店舗がなければ、企業は勝ち残れない。ヒト・モノ・カネのバランスが良くなければならない。この当たり前のことをねばり強く追求している企業が「良い企業」なのであると思う。


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