今日,京都駅の「Fismy」へ寄って,「会社四季報」CD−ROM版を買おうと思ったが,店頭になかった。そういえば,今店頭に置いているのは昨年12月発売の新春版。3月になったら春号が出るのだから,店頭から消えるのはやむを得ない。春号で仕事をするか,新春号で間に合わせるか,悩むところだ。こういう「季節商品」は店側も我々も扱いが難しい。
それにしても,最近はデータが容易に入手できるようになったし,また,パソコンの普及で統計処理のパッケージも容易に利用できる。だからかつてと比べて,我々研究者の生産性は上がったというべきだろう。ただし,マクロスキー「ノーベル賞経済学者の大罪」(筑摩書房,2002年)で言われているように,すぐにコンピュータに頼ってしまって,よく考えないという欠陥が表面化しているようだ。
「統計的有意性は科学的重要性と同一でない。これと同様,数学の厳密性は科学の能力と同一物ではない。統計的有意性および数学的厳密性を探索することの不毛さは,街路灯の下での探索が不毛であることと同じである。それは現代経済学という名のカーゴ・カルト・サイエンス(積み荷信仰式科学)であり,砂場遊びである。」(同上書,102ページ)
「街路灯の下での探索」とは,マクロスキーによれば,それは次のジョークのことを指している。経済学者の行いがそれに似ているというのだ。つまり経済学の現在の「状況は,暗夜に街路灯の回りをはい回っているのを友人に見付かった酔っぱらいに関する有名なジョークに似ている。「何をしているんだ?」「鍵を探している」「それなら手伝おう。このあたりに落としたのだね?」「違う。そっちの暗いところに落としたんだ。でも,ここの方が明るいから----」。(中略)クライン的悪徳におぼれ始めて以来,計量経済学者たちは,暗い場所を探す代わりに,街路灯の下に経済的真理を探し求める酔っぱらいになった。」(32-33ページ)
世の中便利になった。けれども便利になったからといって,易きに流れる恐れなしとしない。自戒しなければなるまい。
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