| 2006年11月26日(日) |
生きたい勇者と、死にたいクズ |
「 世の中は辛いことで一杯ですが、それに打ち勝つことでも
満ちあふれているのです 」
ヘレン・ケラー ( アメリカの教育家、社会福祉事業家 )
Although the world is full of suffering, it is full also of the overcoming of it.
Helen Keller
アラバマ生まれの ヘレン・ケラー は、生後19ヶ月の時に熱病にかかった。
一命は取り止めたが、視力、聴力を失い、話すことさえ出来なくなった。
両親はマサチューセッツ州にあるパーキンス盲学校の校長に手紙を出し、家庭教師の派遣を要請、そこで派遣されたのが アン・サリヴァン である。
彼女は、同学校を優秀な成績で卒業したばかりの弱冠20歳だったのだが、その後50年にも亘って、よき教師、よき友人として、ヘレンを支えた。
この実話は 『 奇跡の人 』 というタイトルで映画化されて、日本でも何度も舞台化されているから、ご覧になり、感銘を受けた方も少なくないだろう。
アン との出会いがなければ、ヘレン の人生は全く違ったものに、具体的に言うと 「 生きる価値を感じられないもの 」 になっていたかもしれない。
何も見えず、何も聞こえず、誰に対して何も伝えられない人生を、それでも価値あるものにしようと、二人は懸命に努力し続けたのである。
ヘレン・ケラー は、自らが障害を背負いながらも、その人生で多くの時間を投じて世界各地を歴訪し、身体障害者の教育と福祉に尽くした。
この説明に 「 自ら障害を背負いながらも 」 と注釈をつけるのは間違いで、自ら障害を背負っていたからこそ、一生を活動に捧げたのかもしれない。
彼女以外にも、時代や、洋の東西を問わず、病気や障害などの苦難を負いながら、精力的に社会福祉、芸術、教育などの分野で活躍した人は多い。
日本人の大半は、五体満足で、ことさら経済的に困窮した経験もなく、ごく当たり前のように親に養育され、学校に行って、適当に社会人になる。
しかし、視力や聴力を奪われたり、死に至る病に瀕したわけでもないのに、ちょっと仕事が辛いとか、自信を失った程度で 「 生きる意欲 」 を失う。
皮肉な話だが、大病や障害などの苦難を負った人は、「 死にたくない 」 と生を渇望し、そうでない人間が簡単に 「 死にたい 」 と弱音を吐く。
死にたくない人間の気持ちも、死にたい人間の気持ちも、その当事者でないと理解できないのかもしれないが、この矛盾には首を傾げたくなる。
私のように、不健康な毎日を過ごしながらも 「 健康診断でどこも悪くない 」 人間に何がわかるのかと、あるいは反論する方もいるだろう。
しかし、たとえば自分の場合、自分は元気だけれど、母を早くに亡くし、父も亡くし、一部の友人、親しい人、愛すべき多くの人との悲しい別れがある。
結婚する予定だった女性も、大病を患って 「 死にたくない 」 と嗚咽し、神戸の震災では、幼児を抱えた親戚が未来の夢を抱えたまま瞬時に圧死した。
いじめ問題では、自殺者が判断力の乏しい子供なので酌量の余地もあるが、自分の命を粗末にする自殺者ほど、性質の悪い人間はいない。
私が自殺者を蔑み、憎むのは、「 死にたくない 」、「 生きていたい 」 と私の前で涙を流した、過去の多くの尊い命を想ってのことである。
自殺を図る大馬鹿者たちは、生命に執着し、懸命に生きようとする勇気を、まるで語る資格などないし、何度でも言うが 「 人間のクズ 」 である。
その クズ が、私と同じように 「 時事日記 」 なんてものを書き続けているが、当然、論点が矛盾だらけで、常連の読者からも批判されている。
こちらから攻撃しないでも、毎回 「 自滅 」 してるし、どうでもいいんだけど、また、守りたい命が現れたので、ちょっとムカついた次第である。
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