| 2006年11月14日(火) |
深く考えられずに普及してしまった日本語 |
「 人が正しく物を見ることができるのは、心によってだけである。
本質的なものは目には見えない 」
アントワーヌ・ド・サンテクジュペリ ( フランスの小説家、飛行士 )
It is only with the heart that one can see rightly, what is essential is invisivle to the eye.
Antoine de Saint−Exupery
視力が良いだけでは、物事の本質を見極めることなどできない。
その真価は、目に映る物体の奥に、何を見出せるかによって決まる。
たとえば、企業の製造責任者などを集めて 「 工場見学ツアー 」 を企画してみると、上辺しか眺めていない人と、そうでない人の違いに気づきやすい。
まず、彼らは、嫌々ながら参加している人と、そこで何かを吸収しようとする人の二つに分類され、そこで前者の人たちは、ほぼ間違いなく脱落する。
残ったのは、それぞれ、意欲的で真面目なグループだが、悲しくも不公平なことに、ただ真面目なだけでは真理に辿り着けない。
次に 「 思慮深さ 」 というハードルがあり、知恵の回らない人や、深く物事を追求する能力に欠けた人たちは、浅薄な知識で満足してしまう。
また、要点を見通す 「 センス 」 に欠けた人も途中で脱落し、すべての関門を突破し、さらに、誰にも負けない 「 情熱 」 を携えた人が真理を手にする。
日常的な生活風景の中にあっても、「 よく考えてみると変だ 」 と思うことを、何気なく見落としていたり、ふと、気づいたりすることがよくある。
分別回収における 「 燃えるゴミ 」、「 燃えないゴミ 」 などもそうで、最初は気づかずにいたが、なんとなく、この言葉には違和感がある。
ゴミが勝手に燃えたり、燃えなかったりするのなら話は別だが、燃やすか、燃やさないかは、ゴミではなく、それを処理する人間が決めることだろう。
つまり、「 燃えるゴミ 」 という表現は 「 ゴミが主語 」 になっているところに、日本語として矛盾があるのではないだろうか。
人間を主語に置き、「 燃やすゴミ 」、「 燃やさないゴミ 」 としたほうが、言葉としてスッキリするし、「 何を燃やすか 」 という行政にも従いやすい。
自治体によっても異なるらしいが、たとえば、私の住む地域では、衣料品の中の下着は 「 燃えるゴミ 」、外着は 「 資源ゴミ 」 に指定されている。
ゴミとして、燃える、燃えないという基準ならば、仮に、下着が綿で、外着も綿の場合、どちらも同じ素材なのだから、それを分別する理由はない。
下着は再利用が難しいので焼却し、外着はリサイクルして使おうという発想は、「 燃える、燃えない 」 ではなく、「 燃やす、燃やさない 」 という判断だ。
そう考えると、ますます 「 燃えるゴミ 」 という言葉が奇異に聞こえてきて、手元の 「 分別回収ガイドブック 」 なるものに、疑問が生じてくる。
屁理屈かもしれないが、鉄だって、アルミだって、高温なら 「 燃えるゴミ 」 にもなるわけで、「 燃やすゴミ 」 かどうかを表現したほうが混乱はない。
先日、空席の多い電車に乗っていたのだが、若者たちが優先座席に一団となって座っており、その中の一人が、携帯電話でメールを打っていた。
そこへ、通りかかった車掌さんが 「 優先座席付近では、携帯電話の電源を切ってください 」 と呼びかけ、若者は照れくさそうに携帯をしまいこんだ。
さらに、車掌さんは、優先座席と逆の方向を指差し、「 優先座席以外では、通話はできませんが、メールなら出来ますよ 」 と、親切に付け加えた。
たしかに、ペースメーカーを装着した病人や、ご老人などがいた場合、携帯の電波が機器に影響を及ぼしたり、そういった不安を与える危険がある。
しかしながら、偶然の所為だろうが、車両内の優先座席付近は、どうみても10代とおぼしき若者ばかりが居て、普通座席には老人が多く座っていた。
マニュアル通りといえばそれまでだが、これでは、優先されるべき対象は 「 座席 」 であって、人間ではないような気がする。
まるで、「 こりゃ、若造めが、恐れ多くも “ 優先座席 さま ” の前で不埒にもメールなどしおって 」 と、叱られているようなものである。
私自身、以前から、この 「 優先座席 」 という発想が嫌いである。
優先座席など取っ払って、体の不自由な人や、妊婦さんなど、座席を必要とする人を 「 優先人間 」 とみなし、どこでも座れるようにしたほうがいい。
携帯電話については、通話はもちろん、車両内でメールを打つ習慣など、全面的に禁止したほうが、多くの人にとって快適なはずである。
制度化することに反対はしないが、問題をみつめる 「 心 」 が無かったり、目先の効果しか考えないところに、それぞれの 「 ほころび 」 がある。
手段と目的を勘違いしたり、本来の主旨が理解できていないから、「 人間 」 ではなく 「 物 」 を主語に置いたりして、本末転倒の間違いが生じる。
このような現象は、最近の日本社会を象徴しているように思う。
挑戦する前に諦める 「 ニート 」 や、努力する前に逃避する 「 自殺者 」 の増加も、「 何が大切で価値があり、何を守るべきか 」 を忘れた結果だ。
人間らしい社会に戻すためには、まず、主語を 「 物 」 から 「 人間 」 へと戻し、心で物事をみつめ、はかる作業から始めることが望ましいと思う。
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