「 匂いほど、過去をはっきり思い出させてくれるものはない 」
ウインストン・チャーチル ( イギリスの首相 )
Nothing recalls the past so potently as a smell.
Winston Churchill
長いフライトを終えて空港に着き、電車、タクシーを乗り継いで帰宅する。
玄関を開けると、当然のことながら、いつもの部屋の匂いがそこにはある。
地元にいると気づかない程度の匂いが、それぞれの街には存在するもので、ニューヨークにはニューヨークの、ローマにはローマの匂いがある。
さらに細かいエリアまで絞り込むと、また独特の匂いがあり、たとえば大阪の環状線 「 鶴橋駅 」 付近は、空腹の人にとって刺激的な匂いを発する。
このあたりは在日韓国人、朝鮮人の方が多く住まれており、キムチの名店や、焼肉屋さんが多いことでも有名な土地柄だ。
仕事などで昼時に鶴橋駅を通ると、環状線の駅ホームまで香ばしく誘惑的な焼肉の匂いが漂ってきて、いつも食欲をそそられる。
焼肉屋さんのことなど普段は忘れているのだが、その匂いによって記憶が呼び戻され、「 よし、久々に行くか 」 という気にさせられるのである。
今回は10日間の短い旅だったのでカナダには寄らなかったが、おかげで、学生時代を過ごした街に留まり、のんびりと過ごすことができた。
サンフランシスコ から高速鉄道線の BART ( Bay Area Rapid Transit ) に乗り、バークレー に着いて最初に向かったのは一軒の民家である。
ここは、寮にも入れず、アパートの借り方もわからなかった最初の一年間を過ごした思い出の家で、今も頭が上がらない大恩人の一家が住んでいる。
少し前に、家人にご不幸があったことを知人から聞いていたのだが、すぐに弔問できなかった非礼を詫び、遅ればせながらお悔やみを申し上げた。
ホストマザー はじめ家族の全員が、そんなことなどまるで気にもしていない様子で、笑顔とキスの大歓迎をしてくれたことに、かえって胸が痛んだ。
この家にも独特の匂いがあり、もてなされた夕食も懐かしい匂いがする。
当時のアメリカ人には珍しく、あっさりした健康食を好む一家だったのだが、相変わらず鶏肉と野菜が中心で、いたって味付けも淡白である。
ホテルに移動せず留まるように勧められたが、昔と違って 「 遠慮 」 というものを知ったし、ホテルのほうが気楽なので、丁重にお断りした。
チェックインの後は、ホテルまで旧友に来てもらって、この地に戻って事業を始めた理由や、成功した話、それまでの苦労話などを聴いた。
その後も、滞在中は彼と多くの時間を過ごして、すっかり変わってしまった場所、ちっとも変わらない場所などを訪ね歩き、夜遅くまで語り合った。
この街は、ヒッピー文化発祥の地だとか、福祉最先端の地だとか、アメリカで一番リベラルな地だとも言われるが、そんな理屈抜きで大好きな街だ。
学校も、森を切り拓いて建てただけあって、小川が流れてたり、リスがいたり、ちょっとした丘があったりして、静かで勉強に適している。
当時は、普段から真面目に勉強しているのはアジア人だけで、アメリカ人はちっとも勉強しないから、「 こいつら大丈夫なのか 」 と思ったものである。
彼らは、試験前になると猛烈に勉強を始め、図書館も 「 24時間営業 」 になり、毛布とパンとコーヒーを持ち込んで、必死に取り組んでいた。
次のシーズンも、その次も、まるで同じ事の繰り返しで、「 ぎりぎりまで追い込まれないとやらない 」 アメリカ流は、その後の人生で私にも伝染した。
初年度に空きがなかったので入らなかったが、I−HOUSE ( International House ) という寮もあり、多くのアジア人学生はそこに住んでいた。
それほど寮費が安いわけでもないのに、部屋は狭いし、なにより 「 食事が不味い 」 という噂を聞いていたので、結局、そこに住むことはなかった。
しかし、たまに楽しいパーティがあって招かれたり、違う学部の子と話せたりしたので、ここも懐かしい場所の一つである。
そこで、ふと 「 アメリカのコーヒーは不味い 」 という話をしたときに、教えてもらったのが 「 ピーツコーヒー ( Peet's Coffee & Tea ) 」 だった。
もちろん、今回も Peet’s に寄ったのだが、店内に足を踏み入れた途端に、当時、感動すらおぼえたコーヒーの芳香が鼻腔を刺激した。
この店の創始者はオランダ人で、アメリカの薄くて不味いコーヒーに嫌気がさし、美味いコーヒーを売ろうと決意したのが、創業の理由だという。
ちなみに、日本でも有名な 「 スターバックス ( STARBUCKS ) 」 は、この店で働いたことのある学生が出身のシアトルに戻り、開業した店舗である。
だから、「 スターバックスの原型 」 として Peet’s は知られており、1号店のあるバークレーは、「 アメリカのコーヒーを変えた街 」 でもあるのだ。
スターバックスを創業した三人の学生のうち一人は、Peet’s を後日に買収し、現在は、ナショナルチェーンのノウハウを活かして店舗を拡大している。
学内のコーヒーとは比べ物にならないほど高かったが、風味も格別で、この店の思い出も、深煎りのコーヒーの香りと共に、今でも記憶に残っている。
サンフランシスコ湾に沈む夕陽を眺めたり、小汚かった ( 今でもキレイではないが ) 安い中華料理屋さんに行ったりして、数日を過ごした。
高級な食事にも、レジャーや、観光にも、お金をほとんど遣わなかったが、ゆったりと、贅沢な時間の過ごし方ができて、今回の旅には満足している。
そこで、20年の時を経ても鮮明に記憶を辿れる手掛かりは、視覚や、聴覚よりも、「 匂い 」 を嗅ぎ分ける臭覚なのかもしれないと思った。
いつの日か、同じ景色を美しいと感じ、同じ香りを好きな人と巡り合えたら、また、同じ場所を訪れたいものである。
てなことを言いながら、なかなか長続きしないうえに、最近は恋愛を始めることに積極性を失いつつあるので、次回も一人旅になる可能性が高い。
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