| 2006年05月14日(日) |
盲信は愚か者の始まり |
「 私は、何も学ぶものがないほど愚かな人に会ったことはない 」
ガリレオ・ガリレイ ( イタリアの物理学者、天文学者 )
I have never met a man so ignorant that I couldn't learn something from him.
GALILEO GALILEI
毎回、著名人の名言を冒頭で紹介している。
時代背景は違えど、歴史の先達から教訓を受ける点は多い。
人はすべて、過去の教育や、出会った人々や、育った家庭など、それぞれの生い立ちや環境から、人格や、物の考え方に関する影響を受けている。
真の学習とは、死ぬまでにどれだけの知識を詰め込むかではなく、尊敬に値する人格や、正しい発想ができる度量を身に付けることかもしれない。
ある時点において、いくら知識があっても、世の中は常に変化しているのだから、学ぶことを止めてしまうと、時代に即した発想力は得られない。
つまり、学ぶこと、世の中を眺めること、他人の意見に耳を傾けることなどを放棄した者は、いくら物知りでも 「 愚か者 」 になってしまう。
冒頭のガリレオの言葉には、そんな訓戒が込められているように思う。
私以外にも、WEB日記で 「 引用 」 を取り入れる人は多い。
たとえば 「 誰々がこんなことを言ってたよ 」 とか、「 話題の本にこんな記事があったよ 」 とか、参考になる意見や事柄を紹介する手法だ。
自分自身にも意見はあるが、著名人の発言などを引用することで、そこに説得力を加えたり、正当性の裏付けをすることなどが狙いである。
無名の素人が意見を述べる際に、「 あの ガリレオ も、こう言ってますよ 」 と付け加えたほうが、主旨が伝わりやすいし、共感も得られやすい。
歯ブラシのCMなどで、「 歯科医の○○博士も推奨しています 」 と、実在の歯科医を登場させたりするのも、「 引用 」 の効果を狙った手法だ。
たまに、この 「 引用 」 の用い方を、間違って使っている人をみかける。
たとえば、頻繁に 「 自分 」 を引用元に使うケースなどがそれに当たる。
出版物でいうと、「 前作に私はこう書いたので、おわかりでしょうが 」 などと書く作家がいたりするのだが、読む側の立場としては 「 はぁ? 」 となる。
過去に発せられた意見である引用元も、いま意見を述べている人も、同じ人物なのだから、そんな引用をされても 「 意見の検証 」 ができない。
前の発言が正しければ問題ないが、誤りなら今回も間違っているわけで、それを、識者の意見や客観的事実との比較と同じように語られても困る。
WEB日記にも、同様の誤りを繰り返す人がいて、「 以前、私は日記にこう書いている 」 などと、あたかもそれが事実的根拠のように示す人がいる。
たとえばそれが、「 自分の意見は終始一貫していますよ 」 という主張なら理解もできるし、「 私には先見の明があるでしょ 」 という自慢ならわかる。
しかしながら、「 ○月○日の日記を読めば、私の意見が正しいことが証明できる 」 と言われても、同人物の意見を見比べるだけで、検証できない。
よほど、その作家を神と崇めている読者なら別だが、前の意見が正しいと証明されているわけでもないのに、正当性を理解することは難しい。
あるいは、「 それでわからん奴はバカ 」 と、自分の正当性を盲信されているのかもしれないが、私と同じように疑問を持つ読者のほうが多いはずだ。
私の日記などは 「 かなり、いい加減な日記 」 だが、自分の書く文章には、それなりの責任と、それなりの正当性を追求しているつもりだ。
しかしながら、自分は神ではないし、未知の知識や情報、別の考え方などが存在する可能性を認めるし、それに対して真摯に耳を傾けたいと思う。
掲示板を設けたり、メールを記載したりしているのも、共感を求める目的と同等に、反対意見があれば、そこから学びたいと考えるからである。
自分の意見の正当性に自信があるのは立派なことだが、過去の、自分が発した文章を引用し、バイブルのように掲げるのはどうかと思う。
精神分析的に判断すると、明らかに 「 自己愛 」 の強い傾向が現れていて、周囲が見えなかったり、他人の意見から学ぶ姿勢に障害がある。
物事を学ぶために不可欠なのは、「 自分は完璧ではない 」 といった謙虚な姿勢であり、他人を見下したり、物事を熟知しているという過信は禁物だ。
世の中のすべてを知り、常に森羅万象について適切な判断を下すのには、人の一生なんて短すぎて、到底、不可能なことである。
また、たとえば戦争を例に挙げると、「 戦争をしたから人が死ぬ 」 場合と、「 戦争をしなかったから人が死ぬ 」 場合もある。
置かれている立場や利害によって、どちらが得策 ( あるいは、善か悪か ) か判断のつきにくい問題もあり、何が正解とはいえない事柄もある。
思い上がりを廃し、たえず自分の出した答を見直していくことこそが、学ぶための近道で、失敗すると遠回りをすることになるような気がする。
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