Tonight 今夜の気分
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2006年01月08日(日) 犯罪被害者の実名報道



「 自由は責任という観点から生きなければ、

  単なるわがままに堕落する危険がある 」

             ヴィクター・フランクル ( オーストリアの精神分析医 )

Freedom is in danger of degenerating into mere arbitrariness
unless it is lived in terms of responsibleness.

                             VIKTOR E.FRANKL



ヴィクター・フランクルは、ナチの強制収容所から生還した人物である。

その体験から 『 夜と霧 』 を執筆し、ベストセラー作家となった。


冒頭の言葉の通り、自由とは素晴らしいものであるが、その背景に責任を負わなければ、単なるわがままに陥ってしまう危険を孕んでいる。

自分の要求を通すときには自由を主張し、その責任を問われると雲隠れしてしまうような、そんな組織・団体や人物を見かける場面も多い。

本来、自由とは、責任を果たすことのできる者にこそ与えられるべき資格であり、無責任な者が自由を手にすると、望ましい結果につながらない。

もし自由の名のもとに、無責任な者が横暴に利己的な目的を遂げようとしたなら、はたして社会にはどのような災厄が訪れるのか。

それを憂慮するなら、自由とは 「 制限して配られるべきもの 」 であろう。


日本民間放送連盟は、警察が事件についてマスコミに向け発表する際に、犯罪被害者の 「 実名報道 」 をするよう、内閣府に申し入れている。

現在、犯罪被害者の実名を発表するかどうかは、警察の判断で行うというルールが定着しつつあるが、マスコミ各社はこれを不服としている。

テレビで顔なじみのキャスターたちが、意見書を携えて上申する場面などがニュースで流れたので、経緯をご存知の方も多いだろう。

報道機関の自律的判断に委ねなければ、犯罪の実態を正確に市民に伝え、犯罪捜査の適法性や妥当性を検証する活動が阻害される。

それはすなわち、報道の自由、市民の知る権利が奪われることにもなりかねないのだと、彼らは力強く訴えている。


その一例として、彼らはよく 「 桶川ストーカー事件 」 の話を持ち出す。

1999年、埼玉県の桶川市で、当時女子大生だった猪野詩織さんが、彼女につきまとっていた男性の手によって殺害された事件である。

この事件では、被害者が犯行以前から地元の警察署を何度も相談に訪れていたにも関わらず、警察が手をこまねいていたことが問題になった。

事件後、マスコミの取材により、警察の不親切な対応、事件への無関心や、さらには捜査資料・調書などの改ざん・隠滅が明らかにされていった。

この事件を契機に 「 ストーカー規制法 」 が成立するなど、印象深い事柄が多かったので、大半の方はご記憶されていることだろう。


マスコミ各社は、この事件を例に出し 「 実名発表があったからこそ、マスコミは被害者宅を取材し、真相を追究することができた 」 と説明する。

もし被害者の身元が明らかにされず、警察の発表だけを基に報道していたなら、警察による捜査過程のミスは暴かれなかったという。

今後、もし事件の背後に警察のミスや不祥事があっても、それらはすべて隠蔽され、明るみに出ない恐れがあると彼らは危惧する。

たしかに、警察や国家権力が100パーセント正しいという保障はないし、それを監視するシステムとしてマスコミの存在は効果を発揮し得る。

実名報道とは関係ないが、ワシントンポストの記者がウオーターゲート事件を暴いたように、国家権力の不正をマスコミが摘発するケースはある。


しかしながら、当事者である犯罪被害者や遺族にとって、事件を境にマスコミが自宅や身の回りに殺到するのは、相当の苦痛である。

真理を追究し、すべてを明らかにしたいというマスコミの意図と、プライバシーを侵されたくないという被害者側の利害が反することも多い。

また、「 100パーセントは信用できない 」 という面ではマスコミとて同じで、一部の報道機関においては、かなり頻繁に好ましくない対応を耳にする。

発表に関する 「 自由と責任 」 という問題で考えると、何か不祥事が起きた際に警察が社会全体から断罪されるほど、マスコミの処分は厳しくない。

報道の自由を声高に主張する割には、ミスがあって誰かに迷惑を及ぼしても、たいした責任を負う姿勢もないのが、マスコミ各社の実態である。


ではこの問題は、どうすればよいのか。

たとえば、報道が警察や国家権力を監視するだけではなくて、報道期間も、国民や行政の審判を受ける機会を増やすとよいのではないか。

行き過ぎた取材や誤った報道が起きた際、当該の報道機関を警察発表や記者会見の席上から、一定の期間、外す処分を課すのもよいだろう。

あるいは、テレビなら終日放送禁止、新聞・雑誌なら発売禁止などの処分を、問題の大小に合わせて一定の期間、課すのもよかろう。

どのような報道姿勢でも、何の制裁も課せられないという現状の甘さが、「 報道期間の自主性に委ねられない 」 原因の一つになっている。


このような制約をもって臨むならば、実名報道を警察ではなく、報道機関の自主性、自律的判断に委ねてもかまわないと思う。

そうでなければ、たしかに警察や国家権力にも疑わしい一面はあるけれど、そこいらのマスコミよりは信用できるという結論にしか達し得ない。

現状のマスコミ各社が、「 報道の自由 」 に足る 「 報道の責任 」 や倫理、公益性などの面において、十分に信頼がおける存在とは言い難い。

前述の 「 桶川ストーカー事件 」 においても、結果的には警察の不祥事を暴く形となったが、はなから正義を目的とした取材ではなかったはずだ。

日本の報道機関各社は、報道の自由を奪われたと叫ぶ前に、どうして自分たちがその役割を担わせてもらえないのか、少しは反省するべきだろう。






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