| 2005年08月07日(日) |
死にたい狂人と、殺したい狂人 |
「 私は生きることが大好きだが、死は怖れない。
ただ、できるだけ遅く死にたいだけだ 」
ジョルジュ・シムノン ( 作家 )
I adore life but I don't fear death. I jusr prefer to die as late as possible.
GEORGES SIMENON
ごく普通の感覚だと思うが、そうじゃないと言う人もいる。
どうやら、すべての人間が 「 生きることが大好き 」 とはかぎらないようだ。
インターネットの自殺サイトを通じて誘い出した男女を、次々と殺害する輩が現れ、三面記事を賑わせている。
当然、それはれっきとした 「 殺人 」 であり、凶悪犯罪である。
犯行に及んだ動機は、窒息させ、もがき苦しむ様子を見たいという変質的な性癖によるもので、常人に理解できるものではない。
しかしながら、このような変な嗜好を抱く人間が、ごく少数派だとはいっても日本に 「 この人間だけ 」 とも思えず、潜在的な共感者もいるだろう。
模倣犯の出現を抑えるよう警戒する対策が、今後は必要になるはずだ。
この犯人に情状酌量の余地はないが、「 生きようとしていた者 」 を無慈悲に殺した事犯とは、同一の基準で裁かれない。
事件における被害者は 「 死ぬつもりだった 」 と推測されるので、この犯人が手を下さなくとも、自らの手で命を絶っていたとも考えられる。
だからといって 「 背中を押してあげた 」 などという弁解が通じるはずもないし、法的にも倫理的にも、そんな権限は誰にも与えられていない。
ただ、「 生きようとしていた者 」 を殺した例とは違って、遺族が犯人を恨んだり、叱責したりするのは筋が違う気もする。
自殺を図る人間も、それを殺害する人間も、どちらも犯罪者であり、どちらも異常者なのである。
もしこの事件で、犯人が被害者を殺害した後に自殺していたら、多くの人間は加害者を 「 犯罪者扱い 」 しなかっただろう。
日本は特に 「 死んだ人間を責めない 」 という暗黙のルールみたいなものがあって、自殺した人間に肝要な風習がある。
だが、よく考えてもらいたい。
この犯人は、「 自殺しなかったことが罪 」 なのか、あるいは 「 人の生命を奪ったことが罪 」 なのか。
そう考えると、自殺そのものが罪であり、それを企てた者、実行した者や、手を貸した者は、すべて 「 犯罪者 」 として処理されるべきなのだ。
日本の敗戦が濃厚になった頃、「 神風特攻隊 」 や 「 人間魚雷 」 といった体当たり攻撃が盛んに行われた。
欧米人の中には、これを 「 自殺 」 と同列に考える人が多い。
多くの日本人は、心情的に 「 国を救うため、自らの生命を犠牲にした 」 という心意気を理解しているので、自殺とはまるで違うことを知っている。
単に、「 生きるのが嫌になった 」 という自堕落な人間とは正反対の位置にあることを、マトモな人間ならすぐに理解できるはずだ。
そこまでして守ろうとした国の人間が、数十年後には年間3万人以上も 「 生きるのが嫌 」 で自殺しようとは、誰も想像だにできなかっただろう。
この犯人を糾弾するよりも、「 自殺サイト 」 なるものを取り締まることこそが先決で、より重要な問題解決手段である。
他の病気と同じく、精神を病んだ人間は 「 治療 」 に専念するべきであり、間違っても 「 ネットの世界で群れる 」 べきではない。
悩み事を前向きに解決しようとするならともかく、自殺を肯定し、仲間を集おうなどとするサイトを、放置した社会、行政にも責任がある。
自殺企図者に対する罰則、処分を重く課し、そのような連中を募って組織化した馬鹿者を厳重に取り締まることが、なにより重要だ。
治る見込みのない重病人や、尊厳死という場合を除いて、自ら命を絶つという行為は犯罪であるという認識を、広く世間が深めていかねばなるまい。
犯人の弁によると、自殺志願者を窒息死させようとした際、被害者はもがき苦しみ、助けを求めたのだという。
この事実は、「 死のうとしている者の反応 」 として矛盾を感じる人も多い。
そこにある 「 死にたいはずなのに 」 という矛盾も、自殺者の心理といったものを理解すれば納得できる。
たとえば、「 こんな世の中なら死にたい 」 と嘆いている連中は、逆にいうと 「 こんな世の中じゃなければ生きたい 」 のである。
自分に都合よく、思い通りにならないことが少しでもあると愚痴り、努力することもなく 「 安楽な死 」 を求めるのが、自殺者の実態のすべてだ。
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