「 男女の間では友情は不可能だ。
情熱と敵意と崇拝と愛はあるが、友情はない 」
オスカー・ワイルド ( イギリスの作家 )
Between men and women there is no friendship possible. There is passion, enmity, worship, love, but no friendship.
OSCAR WILDE
よく、「 男女間の友情は可能か? 」 について、議論が交わされる。
冒頭の言葉をはじめ、賢人はおおむね 「 不可能 」 という答を出している。
相手が 「 友達以上の気持ち 」 を抱いていると知る異性が、お互いの距離を発展させることもなく、それでも 「 仲の良い友達 」 として会う。
悩み事を相談したり、他愛の無い世間話に興じ、手も握らずに別れる。
それを 「 友情 」 という言葉で示すというのは、たしかに、他人から指摘されるまでもなく、自分でも不自然さや、多少の違和感を感じている。
また、どちらかに野心があったり、あるいはどちらかが 「 若い 」 というだけで、そんな些細な理由で、違う結果に繋がったかもしれない。
そんなものは 「 友情 」 ではないと否定される方に反論はしないが、いづれにせよ彼女に対し、「 友達以上の気持ち 」 を再び抱きはしないだろう。
あの日、彼女の肩を掴んで、私の胸から引き離しながら、顔を覗き込んで目が合ったとき、瞬間的に私は 「 年をとった 」 ことを自覚した。
それは、「 好きな女性と初めてのキスを交わす 」 のには最高の場面であり、千載一遇の好機といえるものだったはずである。
それでどうなるとか、後先のことを考えるのは 「 年寄りの証拠 」 で、けして良心とか、真面目さといった問題ではないように思う。
年をとることを 「 分別 」 という言葉で形容するのは容易いし、たしかに賢者の中には、そのような成長を遂げる人もいるのだろう。
しかし、自分をそのような人間と同列に置いて美化したところで、他ならぬ自分自身を納得させることができず、腑に落ちない点が多すぎる。
それでもやはり、自分は 「 年をとった 」 と感じた。
ただし、「 分別 」 ではなく、「 年をとって臆病になった 」 というのが真相で、前に進む馬力や勢いを、どこかで失ってしまったのだろう。
その後の葛藤を経て、あるいは彼女の落ち着きを待ってから、自分の中で彼女を 「 友達 」 として存続させることが可能になった。
異論のある方もいらっしゃるだろうが、お互いに結ばれることなどなくても、たしかに我々は 「 お互いのために、この世界に存在した 」 のである。
それを 「 友達 」 と呼び、お互いを思いやる気持ちを 「 友情 」 と名付けても、あながち間違ってはいない気がしている。
そんなことを考えている私を、いつもの私らしくないと心配してくださる方もいるが、それほど落ち込んでいるわけでもない。
少々、年をとったのも事実だが、これから先、残された時間もたっぷりあるわけだし、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
これから先もまた、私を 「 男性として 」 必要としてくれる魅力的な女性に、再び巡り会う機会が、きっと少なからず訪れるものと信じている。
もちろん、同じような障壁などなくても、同じ結果に終わる可能性もあるが、それは、体験してみないとわからない。
いつか、この 「 新しい友人 」 に、新しい恋の報告ができるように、再びまた頑張ってみたいと思っている。
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