| 2005年05月11日(水) |
忙しい人間は不幸でいる暇がない |
「 何かに忙しくしていることだ。
忙しい人間には不幸でいる暇などまったくない 」
ロバート・ルイス・スティーブンソン ( イギリスの作家 )
Keep busy at something. A busy person never has time to be unhappy.
ROBERT LOUIS STEVENSON
今夜の気分に ピッタリ の名言を、『 宝島 』 の作者から頂戴した。
まったくもって、その通りだと思う。
仕事で、個人や企業の悩みを聴きながら、ふと、自分自身と比較してみた。
彼らにすれば、カウンセラーという人種は 「 他人の悩みを聴く余裕がある 」 立場だと思って、私的な悩みなど一切無いように考えているようだ。
もちろん、こちらが悩んでいたり、迷っていたりする素振りをみせることは、お互いの信頼関係を崩す危険もあるので避けたほうがいい。
だから、穏やかな笑顔を絶やさぬようにして、彼らを元気付けている。
深夜に苦い酒を飲んでため息をついている姿など、誰も想像していない。
軽率に口にすることはできないけれど、他人から打ち明けられる悩み事の大半は、「 そんな小さなことでクヨクヨすんなよ 」 という類のものである。
カウンセラーといえども、聖人君子ではなく、ただ 「 それなりの人生経験があり、専門的な教育を受けた 」 というだけの 「 普通の人間 」 だ。
彼らと自分を比較して、「 そんな小っちゃい悩みぐらい自分で解決ができるだろう 」 とか、「 俺の方が大変なんだぞ 」 という気持ちにもなる。
常に 「 前向き 」 を啓蒙する私の日記を読んで、なかには 「 暗闇を知らずに日なたばかりを歩いてきた人間の日記 」 だと解釈する人もいるだろう。
過去の人生を振り返って、ずっと日なたを歩いてきたのか、心に闇があるのかは、自分自身でもよくわからないが、そんなに悠長な話とは思えない。
しかしながら現実には、彼らは 「 ( 私からみて ) 小さな悩み事 」 のために眠れない夜を重ね、心を病んだり、身体にも変調をきたす。
私のほうは、「 ( 私が思うに ) もっと悲しく切ない想い 」 を負っていながら、生活のリズムは崩れず、計画通りに仕事を進められる。
その違いは、どこにあるのか。
一つには、「 ストレス耐性 」 の違いというものが挙げられる。
精神も肉体と同じように鍛えることができ、過去の学業や、スポーツやら、仕事の場面で、過酷な鍛錬を果たした人間のストレス耐性は強い。
では、「 軟弱で生半可な人間 」 だから不幸を敏感に捉え、「 強靭な人間 」 だから不幸など気にしないのであろうか。
それも否定はしないが、そんな論理だけではないようにも思う。
むしろ、「 忙ししいかどうか 」 という違いのほうが、大きな差となって現れるのではないだろうか。
もし私が、もっと 「 暇 」 な人間だったら、きっと悲しみや切なさなどの心の闇を感じる時間が長く、それに押し潰されていたかもしれない。
あるいは、酒に溺れたり、何かに依存していたかもしれないだろう。
尋常でない忙しさに追われている人間は、たしかに 「 自殺 」 などしないし、心身の健康を ( 少なくとも忙しい間は ) 壊さないものである。
なかには 「 いや、私は忙しいけど不幸だ 」 とか、忙しく働いていたけれど精神を病んでしまったという人もいるだろう。
それに、オーバーワークが 「 過労死 」 を招くことだってある。
だが、実際には 「 忙しい時期から一息ついたところ 」 や、気を抜いた瞬間に心身を壊したという症例が大半で、多忙のピークに崩壊する例は稀だ。
また、「 その人にとっては、忙しかった 」 というだけで、もっと質的、量的に作業をこなしている人間からみれば 「 暇なほうだ 」 という場合もある。
ずっと先までの予定が詰まっていて、もちろんそれを変更することも可能だが、自分に期待し、待っていてくれる人が何人もいる。
いくら悲しくても、切なくても、それを思うと 「 他人からみれば些細 」 な一つの悩みに固執して、自分のリズムを崩すことはできない。
そんな 「 人並みに悩み続けたり、心行くまで落ち込んでいられない 」 自分というものが、ある意味では 「 不幸 」 なようにも思う。
つらいから、悲しいから 「 死んじゃおう 」 なんて言っていられる暇な人々が、逆に羨ましく思える部分だってあるのだ。
忙しい人間は、「 自分が幸せか、不幸なのか 」 などと哲学的に考えている暇がないので、たとえ不幸でも 「 感じない 」 のである。
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