| 2005年05月09日(月) |
マスコミの問題点と、ネットの問題点 |
「 テレビのおかげで独裁は不可能になったが、民主主義も
耐えがたいものになった 」
シモン・ペレス ( イスラエルの政治家、元首相 )
Television has made dictatorship impossible, but democracy unbearable.
SHIMON PERES
世の中には様々な情報が溢れ、いろんな考え方をする人がいる。
中には、「 明らかにおかしい 」 考え方をする人物だっている。
冒頭の文では 「 テレビ 」 としているが、現代ではインターネットをはじめとする別のコミュニケーション手段や、さまざまな情報通信がある。
マスコミの問題点は、彼らが 「 何か強大な権力 」 に屈した場合や、悪意をもって自らの 「 権力 」 を行使した場合に、民意を支配してしまうところだ。
たとえば、今回の 「 JR 福知山線の脱線事故 」 に関していうと、加熱したバッシングに感化された一部の心無い人間が、JR 職員に暴行を加えた。
もちろん、大部分の良識ある人間は、そんなことをしないのだが、もう少し冷静な報道姿勢を貫いていれば、このような愚行が防げたかもしれない。
ただ、このケースでも 「 マスコミが悪い 」 のではなく、そんな風潮に感化されて犯罪を行った馬鹿のほうに、責任があることを忘れてはならない。
以前にも述べたが、今回の事件に関するマスコミの報道は 「 ピントがずれている 」 気がしてならず、真の問題解決には逆効果をもたらしている。
危惧した通り、JRやら、JR西日本の社長を 「 可哀相 」 だとみる人間や、彼らが自殺でもしないかと心配する人が現れ始めている。
まぁ、あれだけ叩かれれば、自殺する職員が現れても不思議ではない。
しかしながら、マスコミ側が彼らに 「 死ね 」 と求めたわけでもないし、責任もとらずに 「 死んで楽になろう 」 とする愚か者に、同情の余地などない。
何があろうと、自殺する人間は 「 所詮、その程度の人間 」 なのである。
ただ、前回の日記に書いたような 「 日本という消極的文化の社会 」 においては、たしかに自殺者を多く生み出す土壌があることも否定できない。
何の責任もとらず、善後策を講じなくとも、自殺した瞬間にすべての贖罪が認められ、「 死者にムチ打つのもねェ 」 といった空気が流れてしまう。
それで、「 シャンシャン 」 と手を打って、お終いである。
自殺について、「 人間として最も卑劣で恥ずべき行為 」 という認識が薄く、むしろ 「 美化 」 して捉える馬鹿が多いのも、困った風潮として存在する。
文化的にみて、ここまで条件が揃っていれば、「 どうすればいいか判らない人は、どうぞ死んでください 」 と言っているのと、同じようなものである。
その言葉の通り、自殺する人間というのは 「 どうすればいいか判らない 」 から自殺するのである。
一連の報道でJRの職員が自殺しても、それを 「 マスコミのせい 」 だとは思わないが、マスコミがそれを求めていないのなら、別の報道姿勢がある。
それは、「 あれが悪い、これが悪い 」 ばかりを責めるのではなく、もっと 「 ああしろ、こうしろ 」 という要求を突きつければよいのだ。
マスコミの指摘する通り、JRの社長が、人命の尊さなんて 「 これっぽっち 」 も考えていなかったのなら、自分の命だって大事にしないだろう。
そんな相手に倫理を説いたところで埒はあかず、それよりも、「 どうすればいいのか判らないのなら、教えてやるから従え 」 と言ったほうが早い。
私自身としては、もちろん、JRの職員が自殺することを好まない。
ますます 「 死ねば済む 」 と考える人間が増えてしまう結果になる。
仕事柄、ストレス障害を持つ人々と多く接してきたが、彼らは 「 みせかけの平和博愛主義者 」 に囲まれ、中途半端に 「 ぬるい 」 世間に疲れている。
誰かが自殺すれば、後を追って 「 楽になろう 」 と勘違いする人間が続くことは間違いなく、そんな風潮を広げてはいけないのである。
自分も、世の中も、誰かが死んで 「 良くなる 」 ことなどあり得ない。
マスコミの欠点を書いたが、インターネットにも問題点はある。
たとえば、今まで 「 ごく一握り 」 とされ、見過ごされてきた特殊な思考が、どこからともなく発信され、蔓延してしまう現象がある。
ネットが無い時代には、「 自殺したい 」 なんて馬鹿げた考えを持っているのは自分だけだと思っていた連中が、群れたり、共鳴したりし始める。
JRの問題点を棚上げして、マスコミの横暴ばかりを論点にしたり、世の中を良くしたいということより、自分の攻撃対象を求めることに興味を持つ。
とかく、困ったものである。
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