Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年04月22日(金) 左の頬



「 赦しとは、踏みにじられたスミレの花が、自分を踏みにじった

  かかとに放つ芳香である 」

                      マーク・トウェイン ( アメリカの作家 )

Forgiveness is the fragrance the violet sheds
on the heel that has crushed it.

                                 MARK TWAIN



若い頃、キリスト教徒の友人と、酔った勢いで喧嘩になったことがある。

彼の 「 右の頬 」 をぶったら、「 左のカウンターパンチ 」 が返ってきた。


現実とは、そんなものである。

なかなか、「 右の頬をぶたれて、左の頬を差し出す 」 ような芸当はできないもので、それを実行するには不屈の精神と、相当な心のゆとりが要る。

友人とは、類を同じくするような人間の集まりであることが多く、彼がそれをしたなら、それは私の友人と呼べるかどうかさえ疑問であろう。

暴力はよくないが、「 殴られたら、殴り返す 」 ぐらいのほうが自然であり、殴り返さずに微笑んでいるなんて、かなり不自然ではないだろうか。

そんな不気味な人間を 「 人格者 」 と言うのなら、もちろん私は人格者ではないし、人格者などと友達になりたいとは思わない。


彼の信心が足りないとか、人格に問題があるわけではない。

彼は、相手の望むこと、つまり 「 こちらが殴ったのだから、文句があるなら殴り返してこい 」 という期待に応えただけである。

それで、お互いがスッキリしたのだから、何の問題もない。

もし、「 左の頬 」 なんか差し出されたなら、スッキリするはずもないし、それ以後の友情が続いていたかどうかわからない。

この話を持ち出した意味は、暴力を肯定するわけではなく、「 自然な反応 」 というものが、なにより一番ではないかということを言いたいのである。


ある国が、別の国の人たちを苦しめ、酷い目に遭わせた。

被害を受けた国の人たちが怒り、加害者に謝罪や賠償を求めるのは自然であり、訴追された側が非を認めるならば、速やかに応じる必要がある。

国家間の戦争と個人的な犯罪は同じでないが、それを 「 罪 」 と呼ぶならば、しかるべき 「 罰 」 が与えられることは納得できる。

あるいは、そのような 「 合法的な処分 」 だけでは被害者の無念が晴れないならば、なんらかの 「 報復 」 が行われることもあるだろう。

殴られた人間が 「 殴り返す 」 ほうが、物事がしっくりいくこともある。


ただし、一度は決着した問題を、数十年後に蒸し返すのはおかしい。

相手が罰を受け、罪を償い、謝罪したにも関わらず、いつまでも赦さないという姿勢を貫くのは、正常なこととは思えない。

償いきれない罰や、取り返しのつかない罪というものもあるだろうけれど、だからといって当事者ではない 「 孫子の代まで恨む 」 のは異常である。

しかも、その数十年の間、両国は和解し、発展的な経済活動や、友好的な外交関係を協調しながら、お互いの立場を尊重してきたのだ。

つまり、そのような状態で相手の 「 左の頬 」 に殴りかかるるのは、もはや過去の報復ではなく、新たな 「 攻撃 」 の始まりとみるほうが正しい。


中国における反日デモは、「 内政の不満から目を逸らすため 」 に、民衆が外敵を憎むように仕向けた 「 中国政府の陰謀 」 によるものであろう。

思わぬ大騒動になり、貿易上の不都合や、あるいは和平上の妨げにまで発展したことは、中国政府自体が驚き、「 誤算 」 と感じているはずだ。

しかし私には、中国政府だけが悪く、「 何も知らされていない民衆 」 に罪が無いとは思えない。

自分たちの野蛮さ、横暴さに気づかないほど、彼らは無知でも、無教養でもなく、「 悪いこと 」 と知りつつ、暴挙に走っていることは明らかだ。

ここで日本が 「 左の頬 」 を差し出せば、たしかに 「 人格者 」 にもなり得るが、それで積年の課題が 「 スッキリ 」 するかというと、逆効果である。






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