| 2005年04月16日(土) |
閉ざされた世界の教育 |
「 学問は結局、世のため、人のためでなくてはならない 」
柳田 國男 ( 日本民族学の創始者 )
Lerning, after all, must serve the world and the people.
KUNIO YANAGITA
教育とは、本来、そうあるべきものだろう。
文部省にも不満はあるが、最低限 「 そこ 」 を目指す姿勢は評価できる。
独裁国、あるいは一党支配の国においては、事情の違うこともある。
教育を 「 思想統制 」 の手段として、統治者に都合のよいように加工して、人心をコントロールするために用いられているのだ。
中国で反日デモが起こるのも、北朝鮮の国民が 「 将軍様 」 を崇めるのも、フセインの残党が 「 聖戦 」 で殉死するのも、その影響が強い。
本来、優れた教育が偉大なところは、一人に 「 徳 」 を教えれば、その徳は何万人にも拡がり、一世代の教育は百の世代にも伝わることだ。
現在、「 社会人教育 」 に携わっているが、「 人を教育することで世の中はよくなり、自分が死んでもその効果は絶えることがない 」 ことを願っている。
逆に、歪曲した知識や考え方を 「 教育 」 という名のもとに流布した場合、国全体を誤った方向に導いてしまう危険がある。
洗脳された国民が誤りに気付き、自ら軌道修正を施すのは容易でない。
日本の場合は 「 敗戦 」 で、旧ソ連の場合は 「 社会主義経済の崩壊 」 という、いづれも大きな犠牲を払って、ようやく修正を遂げたのである。
時の権力や指導者が変わらない状態で、大勢が誤りに気付き、姿勢を正すなどということは、ほとんど期待できないようにも思う。
自国の教育を疑い、異論を唱えること自体が、独裁国では不可能に近い。
中国や韓国が 「 一体、いつになれば、日本を許すのか 」 といった問題も、それと同じように考えたほうがいいだろう。
現在、太平洋戦争の責任を追及する人はいても、日露戦争や、日清戦争、第一次大戦の補償を要求する人はいない。
戦争の被害があったとする国々が、そこで 「 戦争 」 と名指しているものは、二国間で直近におきた 「 太平洋戦争 」 のことだけである。
つまり、将来において両国との間に新たな戦争が起きたとすれば、今度はそちらの戦後処理、戦争責任の追及に、矛先は変わっていくだろう。
それまでは、現在の対立、恨みの矛先、賠償目当ての申し立てが収束する期待は低く、何年も、何百年も、お互いの 「 不協和音 」 は消失しない。
真理に触れることのない 「 閉ざされた世界の国民 」 とは、そういうものであり、自分たちの行為が 「 蛮行 」 か、「 正義 」 なのか、判断もつかない。
少なくとも、彼らが受けてきた 「 教育 」 に反する行為ではない。
中国政府が、デモ隊を本気で鎮圧したなら、日本人、日本企業への攻撃を止めさせることが、彼らの 「 教育 」 を否定することにも繋がりかねない。
あれだけの騒動を、中国政府が黙認する背景には、あるいはその理由が強いという可能性もあるのではないだろうか。
新たな戦争でも起こらないかぎり、不毛な軋轢は続いていくのだろう。
|