「 将来の文盲とは、読み書きのできない人ではなく、学ぶことも、学んだ
ことを捨てることも、また、学び直すこともできない人のことである 」
アルビン・トフラー ( アメリカの著述家、未来学者 )
The illiterate of the future are not those who cannot read or write, but those who cannot learn, unlearn and relearn.
ALVIN TOFFLER
英語で 「 無教養 」、「 文盲 」 を意味する単語は [ illiterate ] である。
しかし、この文中にある 「 将来の文盲 」 は、違う人種を指している。
それは、「 読めるのに読まない 」 とか、「 ものを読まない 」、「 活字離れの 」 などを意味する形容詞 [ aliterate ] のことである。
せっかく本を読む能力があっても、読まないのなら、何の役にも立たない。
あるいは、「 読んだつもり 」 になっていても、内容をまったく理解していないようでは、はたして 「 読んだ 」 といえるだろうか。
大学を卒業していても 「 無教養な人 」 や、中学校しか卒業していなくとも 「 見識の高い人 」 がいるのは、そういうところに起因している。
私が日頃、「 学歴は重要、学校歴は無意味 」 と唱えているのは、その点を指摘しているもので、その人の 「 知的能力の真価 」 ともいえるものだ。
日本国憲法を守れとか、ことあるごとに 「 それは違憲だ 」 と揶揄するのが大好きな人々がいる。
当然、その人は 「 日本国憲法を熟知しているもの 」 と、他人は思う。
ところが、「 ローマ法王が死去し、各国首脳が弔問したのに、小泉総理は行かなかった 」 ことを、大きな問題があるかのごとく批判する。
たしかに、この話は一見すると 「 筋が通った話で、外交上のマイナス 」 に見えなくもないが、それでも 「 行けない 」 のには理由があるのだ。
それこそが、「 日本国憲法 」 の足枷によるものである。
ちゃんと 「 読解力 」 のある人間が読んで、歴史上、隣国が日本に対して 「 どのような難癖をつけたか 」 を考えれば、すぐに謎は解ける。
日本の憲法では、「 宗教の自由 」 が保証されており、総理自らが、特定の宗教に関して 「 肩入れ 」 することは、認められていない。
もちろん、総理自らにも 「 宗教の自由 」 は認められているのであるから、キリスト教徒として参列することは、個人の自由である。
しかしながら、靖国神社に参拝した折の映像や、普段の活動等からみて、どうみても 「 キリスト教徒 」 だとは考え難い。
ローマ法王は、たしかに偉大な人物で尊敬に値するが、国家元首ではなく 「 宗教上のトップ 」 であるのだから、総理が参拝すべき理由はない。
私はむしろ、この一件で 「 小泉 純一郎 」 という人物を見直した。
二流の政治家なら、このときぞばかりに 「 人気取り 」 のパフォーマンスを展開し、聴衆にアピールしようとしただろう。
そして後日、「 護憲派 」 と称した天邪鬼な団体や、隙あらば難癖をつけようとする隣国から、「 憲法違反 」 だとして批判されたはずである。
ひょっとすると、本人は 「 とても行きたかった 」 のかもしれない。
そうならば、「 引き留めたブレーン 」 が優秀だったのだろう。
大学を卒業し、世間に物申すのはよいが、このように 「 不勉強、あるいは考えが浅い 」 ために、物事の本質が見抜けない人たちが実に多い。
他人が自分の期待と違う行動をとったときに、賢い人は 「 なぜだろう 」 と理由を考え、そうでない人は 「 中傷する目的 」 で凝り固まってしまう。
けして、そういう人たちを責めようとか、蔑もうとか、そういう意図はないが、「 せっかく字が読めるのだから 」 もう少し考える習慣を持って欲しい。
もちろん、私の思う 「 説 」 も間違いで、「 ただ面倒だから行かなかった 」 というのが真相かもしれない。
どちらが正しいかが問題ではなく、「 理由を考えることもなしに批判する 」 ことが、常識人として、あまりにも愚かでお粗末だということである。
* 考えてください
問 : 10℃のコーヒー900CCに、5℃のミルク100CCを入れる。
すると、何度になるでしょう?
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