「 私は生涯を通じて一流か三流で通すよ。 二流には決してならないね 」
ノエル・カワード ( 劇作家 )
I'll go through life either first class or third, but never in second.
NOEL COWARD
ちょっと説明しないとわかり難いが、この考えには多いに共感できる。
誇り高いことは素晴らしいが、中途半端なプライドなら無いほうがマシだ。
「 どこの大学を出たの? 」
開口一番、すぐに聞きたがる人がいる。
出身校が人生を左右するとしたら、それは官僚の世界がもっとも著しくて、キャリアかノンキャリアかで、その後の出世も収入も決まることが多い。
しかし、民間企業の場合はそうとも言い切れず、一流大学を出て一流企業に入社し、安泰だと思ったところが倒産したり、リストラされることもある。
一般社会では、「 出身校そのものが重要ではない 」 ことなど、バブル崩壊後の日本をみれば明らかといえよう。
まるでバブル時代を引きずるように、「 大学はどこ? 」 と聞きたがる人物は、出身校という 「 見せかけの権威 」 に、まだ意味があると考えている。
本当にその人物を評価するつもりならば、人柄をきちんと判断するべきで、言葉遣いや立ち居振舞いのほうが、よほど手がかりになるはずである。
それなのに中身より外見や経歴に気をとられ、しかもその判断基準でさえ、自分のものではなく、世間や既成概念から、もたらされたものでしかない。
企業の面接官など、必要があって出身校を尋ねる機会の多い人は別として、誰の周りにも、口癖のように大学名を聞きたがる人がいる。
あるいは、「 彼は○○大学の出身者だから優秀だ 」 という発言の多い人も含めて、心理学的には 「 中身を見ない権威主義者 」 と分析される。
こうしたタイプの特徴は、外からもたらされる情報に対し、無条件に信頼をおきがちで、ちょっと気をつけたほうがいい。
大新聞に書いてあったからとか、大学教授が言っていたからとか、そういうことだけで簡単に信用してしまう傾向がある。
また、本人自身の出身校は 「 二流 」 であることが多い。
自分より上の価値も、下の価値も知ったうえで、「 そこそこ 」 の自分という存在に地位を求め、上にへつらい、下を小ばかにする。
ちなみに、「 一流 」 の人は他人の位置など気にしないし、「 三流 」 の人も地位に関する競争意識はないので、他人の経歴に特別な関心などない。
ちなみに、どの大学が 「 一流 」 で、どこが 「 二流 」 なのかというと、それを決める物差しは、「 卒業した自分自身 」 が持っているものだ。
どこにも、明確に 「 一流 」、「 二流 」、「 三流 」 を定めた基準などない。
自分の出身校に誇りを持っていれば、堂々と 「 一流 」 と答えるし、怠けたり、諦めたりして妥協した経験者は、「 二流 」、「 三流 」 と答える。
ただ、「 二流の人 」 の定義だけは、わりとハッキリしている。
自分より格下だと思う相手には、「 ○○ごとき 」 と罵倒し、上だと思う相手には、実際に会ったこともないのに褒めちぎるのが 「 二流の人 」 である。
仕事が 「 まったく楽しくない 」、「 辛いだけだよ 」 と愚痴ってばかりの人も、この 「 二流の人 」 に多いようだ。
一流は、職場の雰囲気を改善したり、工夫して苦役の中にも楽しさを見つけるし、なにより、成果を挙げる能力が高いので、そんな愚痴を言わない。
三流は、仕事への参加意識が低く、責任感もなければ、周囲の期待も低いので、一流とは別の意味で、さほど仕事を辛いと感じないものなのだ。
二流の人だけが、「 自分がなんとかしなければ 」 という思いだけが強くて、そのわりに周囲の忠告を素直に聞けなかったりして、仕事が巧くいかない。
だからといって、二流の人が 「 三流 」 になる必要などはなく、相手が誰であろうが素直に心を開き、耳を傾けることで 「 一流 」 になれるのである。
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