Tonight 今夜の気分
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2005年03月13日(日) 無意味な精神鑑定



「 人間よ、人間よ、それは全く哀れみなしでは生きていけないものだ 」

                フェドール・ドストエフスキー ( ロシアの小説家 )

Man, man, one cannot live quit without pity.

                         FEODOR DOSTOYEVSKY



人が幸福に生きられるかどうかは、大抵は 「 本人次第 」 である。

しかしながら、ごく稀に 「 本人にはどうしようもない 」 ケースもある。


たとえば、親の虐待によって無残な死を遂げた幼児に、何の非があろう。

虐待でなくとも、近親者が精神に異常をきたし、幼子を巻き添えにする事件の場合も、同じようにまた悲劇となる。

幸せとは、「 自分の手で掴むもの 」 だとか、「 気の持ちよう 」 というのは、あくまでも 「 自分の生き方を選択できる者 」 の話である。

だから、子供に危害を加える者、しかもそれが 「 近親者 」 であるならなおのこと、その罪は重く、憎むべき存在となる。

しかし、いくら憎んでも、死者が甦るはずもなく、何の慰めにもならない。


岐阜県警は昨日、中川市で一家五人が惨殺され、一人が負傷した事件の容疑者である 原 平 容疑者を、「 殺人未遂 」 の疑いで逮捕した。

既に五人の殺害も認めているらしく、県警は殺人容疑としても捜査を進めており、動機の解明なども急ぐという。

どうやら 「 自殺するつもりだった 」 ようで、「 何もかもが嫌になった、こんなことをしてしまって許してくれ 」 などと供述しているらしい。

自分の母親、長女、長男、孫二人 ( 2歳と、生後3週間 ) を殺害した犯人は、一体、「 誰に 」 対して、「 何を 」 許してくれというのか。

自分が 「 何もかも嫌になった 」 のだから、子供や孫の生命を絶ち切っても、許される余地があるという論理を、理解できない私は頭が悪いのか。


何の非もないのに、父親に、あるいは祖父に、寝込みを襲われ惨殺された被害者の無念は、いかばかりであろうか。

死刑制度の是非を問う議論も活発化しているが、この犯人に 「 安楽な死 」 を与えることが、被害者の無念に相当する 「 代償 」 とは思えない。

この犯人にとって、司法の手で生命を絶たれることは、むしろ 「 恩恵 」 であって、罪を償うための 「 罰 」 とはいえないように思う。

逆に、「 絶対に死ねない環境 」 に拘束し、生涯、幼子の無念に思いを馳せさせることこそが、罰として相応しいのではないだろうか。

どのような判決が出るのか、いまのところは不明だが、私としては、平易に 「 死 」 という名の終末を与えるべきではないように思う。


ストレス耐性が弱く、精神の病に冒された人間に 「 同情の余地 」 はあるが、このような不幸が身内に及ぶ事態は、なんとかして防ぐべきだろう。

ここまで大きな事件に発展しないまでも、暴力的、あるいは破滅的な身内の狂気によって、幼子の生命が危険に晒されたという事例は少なくない。

事件が起きてから、被疑者を 「 精神鑑定 」 して罪の重さを測ることよりも、危険な兆候が出た時点で、予防的な対策が必要となる。

家族には安全な避難先を確保し、本人には適切なカウンセリングを施して、不幸な出来事を水際で食い止める制度を、さらに充実させるべきだろう。

現代は 「 ストレス社会 」 であり、重圧に耐え切れず自殺や心中をはかるなどという 「 問題の種 」 はいくらでもあり、放置すると惨事は繰り返される。


このような事を書くと、精神疾患、人格障害の人への 「 偏見 」 や 「 差別 」 だと捉える人もいるが、よく考えて欲しい。

何の対策も講じず、このような事件が起きてから 「 小さい子が可哀相 」 だとか、「 犯人も可哀相 」 だと哀れんでも、死者は生き返らない。

重い心の病に冒されていたとしても、世の中に 「 死んでもいい人間 」 などいないはずで、誰も自分から死ぬべきでないし、殺されるべきでもない。

我々 「 カウンセラー 」 の中には、時間の許す限り、たとえ無償でも相談に乗るという人材は多く、もちろん私自身も例外ではない。

どんな病気の場合も、一番の害悪は 「 放置する 」 ことであって、取り返しがつかなくなる前に、解決の糸口を探れる社会を整備する必要がある。






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