どんぐり1号のときどき日記
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2009年04月01日(水) 司法の限界

 エイプリル・フールだが、何も思いつかない。これはいつもの事だ。
 そして各メディアでもこれはというネタがない。やはり不況で精神的な余裕がなくなっているのだろうか。

 そんなエイプリル・フールのネタとは全然関係なく。
 裁判において裁判官が、殺人罪で死刑にする場合の判断基準に、被害者が加害者より多くなければならないというものがあるのだという。つまり複数の人間で一人をなぶり殺しても絶対に死刑にはならないという事を示している。
 過去、暴走族や暴力団が集団で一人を殺しても、誰も死刑にならないのはそういう理由があった訳で、加害者である彼らはそういう裁判の事を熟知しているから複数で犯行に及んでいる可能性がある。やはり裁判官もしょせんはただの公務員であり、自分に直接火の粉が降りかかってこない限り、全ては他人事なのである。
 結局、現在の司法制度にはその犯罪を裁くという意味合いしか持たせておらず、犯罪を減らすための抑止効果までは期待して来なかったと言う事になる。そういう側面が皆無だったという事とは、極端に言ってしまえば、死刑に犯罪抑止の効果はなかったという事になる。複数で一人を殺せば誰も死刑にならない、というのが判っていればなおさらだろう。

 そんな経緯を知っていれば、ネット上で知り合ったバカどもが共謀して金銭目的で女性を一人殺した事件で、3人の内2人に死刑判決が下りたというのはかなり画期的な出来事だ(多分最高裁まで争われるだろうし、最終的には過去の判例を踏襲して死刑にはならない、という結果で落ち着きそうな気がするが…)。この部分は評価しても良いだろう。
 ただし首謀者が死刑にならないというのは明らかにおかしい。自分で計画し女性をなぶり殺しておきながら、金の奪取に失敗するや他の二人を売り、「事件が解決したの誰のおかげだと思っている」とうそぶくほとんどキチガイじみた思考回路の人間が、死刑にはならないのである。こういう部分で、日本の公務員が裁判をしている司法の限界点が明確になる。

 だからこそ裁判官制度のような、国民の感覚を反映させるシステムガが必要なのである。公務員というのは世間一般の常識に欠けるのは以前から言われているので、一緒に裁判を行う事で国民の感覚をある程度は反映させるようにするべきなのである。もちろん法治国家として極端におかしい場合は修正する必要があるが、少なくとも国民の声がどういう物なのかを裁判官が知る事は、決して無駄にはならない。


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