どんぐり1号のときどき日記
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酒気帯び運転で死亡事故を起こし業務上過失致死と道交法違反の罪に問われた大阪府内の内装業の男に対して、大阪高裁が、懲役1年とした1審を破棄して懲役1年6月を言い渡したそうである。司法の世界としては、なかなかすごい事をしたものだ。
しかしこれに対して弁護人は、「世論に左右されるのはおかしい。こういう時期でなければ執行猶予がついた事案だろう」と発言したとの事で、つまり人を殺しても、法律上は実質罪に問われないと明言している事になる。そもそも法律上この手の事案で執行猶予とは、無罪に等しいのである。 あるいは他の飲酒運転でバイクの人を死なせた事件でも、弁護人は「危険運転致死傷罪での起訴は疑問。公判で事案の解明に努力したい」などとふざけた事をいっている。 つまり彼らは多くの事例を通して、飲酒運転で人を殺す事は犯罪でもなんでもなく、ただの事故でしかないから罪はないと言っているのである。
法律は過去の事例を重視する。それから外れた判決を出そうとすると、多大なる時間と労力が必要になるため、なかなか変わる事はない。つまり飲酒運転の判決では、執行猶予がつくか無罪になるのが通例なのである。それに対して弁護士はなんの疑問も持っていないし、余程の事がなければ、検察側も考え方は同じなのである。 だから法改正が望まれているが、改正されるまでの期間は被害者がバカを見るだけだし、実際に改正されても今度は現場の運用がしっかりしないと、何の役にも立たない(ストーカー防止法が現場レヴェルでほとんど役に立っていないのを見れば判るだろう)。 現に飲酒運転時の危険運転致死傷罪は、その立証手続きが面倒で、なかなかうまく機能していない。だから検察が「逃げる際に事故を起こさなかったから、正常運転が無理だったとは言えない」という素晴らしい論理を展開する事にもなるのだ。ここにあるのは飲酒運転に対する著しい誤認だ。
これでは飲酒運転をなくするための法整備にもかなりの時間がかかり、また実際の現場での運用までには更なる時間が必要だと判る。根本的に考え方が皆おかしいからだ。 こうなると飲酒運転に対してもっと思い罪で償わせるために有効な手段としては、我々には「陪審員制度」くらいしかないのだが、それが判っていない人のなんと多い事か。未だに陪審員制度が始まっても参加したくないと言う人が非常に多いのだ。 飲酒運転のように、世の中の常識と実際の法律、運用が乖離して、かつ法律の整備が全く追いついていない現状では、唯一の武器が陪審員制度なのである。
一般的国民は、何故それが判らないのだろう。時間を取られて嫌だという気持ちは判らないでもないが、我々一般国民の生命、財産を守るためには、法律の整備を待っていられない事例も多いのだ。法律は、恒常的に犠牲者が発生する事例でなければ変えられないが、陪審員制度ならすぐに対応が可能なのである。 そして陪審員制度で常に同じ判例が出せれば、法改正の前に法解釈を変える事も可能である。
結局どんな事項であっても、社会という物がある以上は単独で動いている物などない。飲酒運転が重大犯罪なのは当の本人以外は誰にでも判っている事なのだが、それを法律の見解にまで持っていくためには、様々な行動が必要なのである。
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