Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2002年08月25日(日) 独断と偏見によるオーディオ機器の考え方

2002/8/25 1:00
特徴として、スピーカは自然な音が楽しめて、ヘッドホンははっきりとした音が楽しめる、というのがあるようだ。
要するに、金をかけなければ、という条件付きだが、
スピーカは細かい音がよく分からないのだ。
そして、ヘッドホンは安くてもまあまあ分かる代わりに頭の中で鳴り響くような不自然な音になる。
僕はそれがすごく好きなのだが、違和感を感じる人も多いだろう。
さらに、左右にパンが振ってあると、さらに違和感を感じる人も多い。
スピーカなら左右から自然に聞こえるが、ヘッドホンだと、耳の片方からしか聞こえないという、
自然の中ではほとんどあり得ない事態が起こる。
まあ、そんな音源は、よほど変なものでない限りないのだが。
ゲームやMIDIデータなどによく見られる。

とまあ、そんなわけで、
普通に考えて、普通に投資するならスピーカの方がいい。
安上がりに効果的にクリアな音が聴きたいなら、デメリットに目をつぶってヘッドホンがいいだろう。

ただし、ここからが問題だ。
オーディオ機器はオーディオ機器のみで使うのではない。
…音楽を聴くという用途以外にオーディオ機器を使うつもりがない人間は
ここから先はまったく関係のない事柄になるだろう。

僕の場合は特にそうなのだが、
せっかく買ったオーディオ機器なのだから、なるべく多用途に使いたいと思う。
「音楽」だけでなく、「音」も聞きたいのだ。
例えば、ゲームの音楽や効果音、Windowsの効果音、その他、いろいろなものがある。
僕は使っていないが、テレビの音を聞きたい人もいるだろうし、
映画の音を聞きたい人もいるだろう。

このような場合、その目的にもよるが、
ヘッドホンが適している場合も多い。
特に、テレビ電話には絶対ヘッドホンの方が適している。
スピーカで電話などというのは、試してみると分かるが、
かなり間抜けと言っても過言ではない。

デメリットは数多い。
まず、先程述べたように、よほどのスピーカを使わない限り、
スピーカというのは音が聞き取りにくい。
特に、全体の流れを聴けばいい音楽と違って、会話は音質よりその言葉の内容が問題だ。
固定電話など、11kHzというあきれるほどの低音質であるにもかかわらず、会話は成立する。
こんな音質では音楽を聴くことなど期待すべくもないが、
それでも会話は成立するのだ。そんなことより、重要なのは音がクッキリと聞こえることだ。

他にもデメリットはある。
試してみるとすぐに分かるが、スピーカから音が出ると、
音を四方八方にまき散らす。
当たり前だ。スピーカというのはそういう仕様だ。
少なくとも僕は、指向性の極端に高い音を出すスピーカなど見たことはない。
高音は指向性が高いようだが、人の声程度だと、すぐに回折などの現象を起こすことだろう。
そうすると、当然マイクもその音を拾うし、周囲の人間にも聞こえる。
マイクが音を拾うと、エコーのように反響することになる。
ボリュームの設定やマイクとスピーカの位置によっては、
その音がどんどん増幅され、ハウリングのような現象を起こす。
さらに、周りの人間にとっても迷惑だ。

ということで、電話にはヘッドホンが適している。
コストパフォーマンスを考えると、ヘッドセットマイクがいいだろう。
価格は1500円程度だ。
ちなみに、わざとなのか、それともコストの問題なのか、
このような安価なヘッドセットマイクは、極端に音質が落ちていて、
低音や高音の特性が非常に悪い。
悪いと言っても、会話には適している。
余計な音が消えるからだ。
人の声以外はカットするフィルタに近いと言ってもいい。実際はフィルタなどではないはずだが。

他に、ゲームをするときにもヘッドホンが適している。
バイオハザードやクロックタワーなど、ヘッドホンの使用を推奨しているゲームもあるが、
そうでなくても、ヘッドホンを使った方がいい。
ヘッドホンの方が、左右が分かりやすいからだ。
何度も述べているように、安価なスピーカの音ははっきりしない。
だから、右で鳴っているのか左で鳴っているのかも、
わずかなパンでは分かりにくい。
スピーカ同士の距離を開ければ分かるが…。
しかし、ヘッドホンなら、頭の中で鳴り響いている音が横に寄るのだから
割と小さな変化でもよく分かる。
鬼武者やバイオハザードなど、主人公に近い視点のゲームなどは、
ヘッドホンを使うだけで、敵の方向が分かるようになる。
鬼武者などの場合は特に、サウンド設定がステレオだけで3つあるが、
この設定の恩恵は、ヘッドホンでないと少々分かりにくい。

あと、人の声が入るゲームも、ヘッドホンの方がいい。
Final Fantasy Xは、ヘッドホンなら字幕なしでもよく分かる。
せっかくのCGも、字幕を見ていたのでは目に入らない。
CGを見ないのでは、Final Fantasyを買った意味がない。
サウンド・エフェクトの場合、はっきりとした音と方向性を考えると、ヘッドホンの方が有利だと思う。

それから、ゲームの場合、
部屋の残響音が考慮されていないと思われるものが多い。
特に、Star Oceanシリーズはその傾向が顕著だ。
リバーブと呼ばれる残響効果がかなり強くかけられているのを感じる。
あと、今ではあまり考慮する必要はないが、
スーパーファミコンのゲームも、残響効果はすさまじいものがある。
スーパーファミコンの音楽をMIDIで再現しているデータを見ると、
リバーブ効果が限界までかけられている場合がある。
このようなゲームの音楽をスピーカで鳴らすと、
音量が小さいときはあまり影響を感じないが、
音量を大きくすると部屋に響きまくってひどくうるさく感じる。
このような場合も、ヘッドホンの方が有利だろう。

ヘッドホンにはもともと、耳に装着するという仕様から、
どうしても不自然な音という特徴がある。
だがこの特徴は、初めから不自然な音を聞くときには、それほど問題にならないのだ。
むしろ、有利になる場合も多いと、僕は思う。

人の声は不自然ではないが、
スピーカから流れるのと比べれば、ヘッドホンの方が聞きやすいことは間違いない。
…考えてみれば、人の声を、面と向かって話しているのと同じくらい聞き取りやすくする技術というのは
あまり考えられていない気がする。
どのようにすると良いのだろうか?
やはり、目的に特化したスピーカがもっとも良いだろうか…。
大企業のトップがテレビ電話で会談するような場合、
どのようなシステムが用いられているのだろうか。
今度、セットアップに行ったときにでも見てこようか…。
案外、黒電話だったりするかもしれないが。

有名な話ではあるが、
内部に一切電子回路を持たない黒電話は、
もっとも盗聴が難しい電話機なのだそうだ。
盗聴しようにも、仕掛けようがないらしい。
我が大学でも、一部の教室には黒電話を設置して、連絡にはそれを用いている。
一度、実験中に突然黒電話が鳴り響いたことがある。
まさか、教室に設置されている電話が講義中になるなどとは思わなかったから、
僕たちはひどくびっくりしてその様子を眺めた。
教官は電話を取り、ひどく深刻そうにうなずいていた。
いったいなんなのかと思って、一同は息をのんだ。
教官は、元の位置に戻ると、軽く言い放った。
「間違い電話だった。」と。

考えてもみるがいい。
そもそも、教室に黒電話というのが相当嘘臭い光景だ。
しかも、なんなのか知らないが、その電話は床に直接置いてあった。
だから、教官は床にしゃがみ込んでその電話を取ったのだ。
あり得ない…。天下の助教授が、学生たちが見つめる前で床にしゃがみ込み、
突然鳴った黒電話を取るなんて…。
しかも、大学の構内にある教室なのだから、間違いなく内線の電話だ。
それなのに、間違い電話と言う。
いったいあれはなんだったのか、今もって謎なのだ。

ちなみに、まるで盗聴防止のために黒電話を設置しているかのように書いたが、
黒電話を置く台すら存在しないことを考えると、
おそらく、コストパフォーマンスを十分に考えた結果なのだと考えられる。
ひらたく言えば、金がなかったのだ。きっと。

オーディオ機器の話が途中で飛んでしまったので、
一応ちょっとまとめを書くことにする。
知っている人には常識なのだろうが、
オーディオ機器というのは、「これが一番いい」という言われ方をすることがままある。
しかし、今の時代、オーディオ機器の用途は多種多様だ。
バッハしか聴かない人もいれば、古代の宗教音楽から現代の前衛音楽、
さらにはゲームのBGMや声優のアニメソング…、ごほごほ…。
とまあ、何でもかんでも聴きまくる人だっているだろう。
彼らはそれぞれ、まったく違う趣味趣向を持つ人だ。
オーディオ機器は、彼らのように様々な感覚を持つ人たちの需要を満たすために
多様化したと考えられるだろう。
と言うよりも、そう考えた方が、オーディオ機器を選ぶ上で都合がよい。
そのように多様化したオーディオ機器が存在するのだから、
自分にとって、どれが最善であるかを考えればいいだろう。
それは人によって、様々な結論になるだろう。
経済的な状況も考えれば、ラジカセだって最善の選択になりうる。
小型PCを持ち歩いて、そのPCでMP3データを再生して楽しむという方法だってある。
要は、求めるものと、それを実現するための犠牲だ。
ちょうどバランスが取れるものを用いればいいだろう。
まあ、バランスが取れていたって、
最高の投資で最高の装備を調えてしまうと、他のことができなくなってしまうが。
同様に、最低の投資で最低の装備を調えてしまうと、
結局、不満が出てくる可能性が高い。
その辺りもバランスだろう。

2002/8/25 2:04

2002/8/26 2:29
早くも追記。
昨日のことなのだが、ハーゲンダッツのロイヤルミルクティーを、昼食のラーメンのあとに食べた。
2年前、この川崎に来たときも、やはりラーメンだった。
そして今回も…。とんこつしょうゆラーメン。チャーシューがおいしかった。
で、ロイヤルミルクティーを食べたことで、残るはコーヒーのみ。
まあ、他のシリーズがいろいろあるのだが、その辺は知ったことではないということで。

あと、おとといくらいから、腕立て伏せを再開した。
しばらくサボってしまっていたのだ。
ただ、連続で100回やるのは、体力的にはともかく、時間的に面倒くさい。
毎日毎日そんなに時間をかけたくない。
…ということで、片腕で20回ずつやって、それから両腕で50回やることにした。
まあ、効果があるのかどうかは知らないが、やらないよりマシだろう。
足りないと思ったらスピードを落とせばいい。
中途半端な姿勢で長くいれば、その分負荷がかかるのだから。

2002/8/25 2:33

2002/8/26 2:02
今日は、友人とカラオケに行った。2人で5時間歌い続けた。
さすがに、少々喉が疲れた。
しかし、そういう問題とは別に、声がかれてから声が出にくくなっている。
別に歌手になりたいわけではないのだから、別に構わないのだが。
歌手になれるような特殊な声を持っていないことは、自分が一番よく分かっている。
昔は結構きれいな声だったのだが…。
たぶん、どこにもその記録はないだろう。

大学の近くの店に行ったのだが、
その途中、大手町駅にて、火災非常放送の訓練があった。
サイレンが鳴って、一生懸命放送していたのだが、
何を言っているのかなかなか聞き取れなかった。
どういう意図なのか知らないが、上に書いた「聞き取りやすい言葉」の条件から明らかに逸脱している。
残響音が異常に大きいのだ。
改善の余地が十分にあると思うのだが、当事者は誰もそうは思わないのだろうか。
あんなに聞き取りにくくては、いざというときにパニックになりかねないと思うのだが。

で、先週を除いて毎週おなじみのドラマ。
内容については、Webを見ればすぐに分かるという、実に当たり前のことを失念していた。
ということで、内容については特に触れない。
まあ、物語が展開するにつれて、徐々に制約が大きくなってきた。
今まで張った伏線に縛られている感じは否めない。
だから、今までと比べて大きく物語が動いた感じはしない。
それにしてもこの主人公、ヒロインとの約束を一度も守っていないのではなかろうか。
それでもモテるのだから、世の中は不公平だ。
約束をすれば必ず破られるという、お約束なのかもしれない。

それから、これも前に書いたかもしれないが、
このドラマ、服装を効果的に用いている。
ヒロインのイメージを作るにももちろん服装は重要だ。
だが、そんなものはドラマに限った話ではない。
このヒロインの服装と彼女の服装のイメージが似ていると書いたことがあるが、
普通の人だって、自分の示したいイメージに合わせた服を着るものだ。
僕だって、基本的には服なんて安ければなんでもいいが、
それでも、ある程度無難な格好を心がけているつもりだ。
ちなみに、彼女がこのドラマのヒロインのような雰囲気を醸し出したいと思っているのかどうか、
なんてことは知らない。ただの偶然かもしれないし、僕がそう思いこんでいるだけかもしれない。

で、そんなことより注目すべきなのは、スーツだ。
クーデターに失敗して閑職に追いやられたサラリーマンを表現するとき、
サイズの合わないスーツを着せてうまく表現している。
また、主人公自身の場合も、少しサイズの合っていないスーツを着せて、
まだまだ学生で、スーツを着慣れていない様子を表現している。
ただ、主人公の場合、顔が顔なので、あまり違和感を感じないのだが…。
あれだけの男前になると、なにを着せてもそれなりに様になるらしい。

僕は、ものの考え方は、比較的古い考え方が好きだ。
最近の冷静な考え方は、それが正しいと思うし、実際自分もそういう判断を行動の指針にしているが、
どうしても好きにはなれない。
こういう、半分時代劇のようなドラマを見ると、
物事の考え方が、30年程度で大きく変わってきていることに気づく。

個人的に一番大きく変わったと思うのだが、苦しいという概念。
昔の苦しみというのは、ある意味で身近だったようなイメージがある。
そして、昔の人は、苦しんでいる自分というのを、ある意味自己陶酔的に見つめている部分があったように思える。
ああ、私は今、苦しんでいるんだ…!という感じだ。
歌などを聴いても、この時期の歌にはそういう歌詞が結構見られる。

ところが、最近になると、この概念に少々変化が現れているように感じる。
身近でなくなったというか、非現実的な印象を受けるのだ。
それは、僕の生活が苦しみから遠いせいなのかもしれないが。
ただ、私は苦しいのだと、主張するような場面は明らかに減っている気がする。
そういう言葉で同情を買うような行為がさげすまれるようになったのだと思う。
悲しみはともかく、苦しみなんて自分の考え方と努力次第で
どうにでもなるという考え方が一般的になったのだろうか。

今、苦しみというと、漠然とした、現実感のないマイナスイメージという感じだろう。
悪く言えば、「ほら、私はこんなに苦しんでいるんだ!すごいだろう!?」というような
押しつけがましい感じはなくなってきた。
昔は、そういうことを表現する文学者が多くいて、
今は文学者そのものにインパクトがない、というのが原因のような気がする。
苦しい苦しいと言われることなんて迷惑以外の何者でもないが、
他人がしていれば、自分もしていいと勘違いするものだ。
昔は、そういう環境があったのだろう。

こんな短い時間でも、苦しみだけでなく、
多くの感情に対する感覚が変わってきているように思う。
たったこれだけの時間でこれだけ変化するのだから、
人間とは変化する生き物だとしみじみと実感する。
それと共に、価値観なんてものにはそれほど意味がないとも感じる。
周りの環境などで、容易に変化しうるものだからだ。
僕だって、今が安保闘争真っ盛りの頃だったら、学生運動に参加していたに違いない。
しかし今は、少々政治に不満を感じないこともないが、
基本的に、行動で政治を変えようとは思わない。

一応大学生活に関する日記なのでそれっぽいことを書くと、
今の学生がもっとも好むのは、おそらく楽しみだろう。
同じプラスイメージの感情でも、喜びにはそれほど興味がないようだ。
基本的に、楽しみは現在や未来に関する感情だし、喜びは過去に関する感情だ。
だから要するに、済んだことには興味がないということだ。
終わったことよりも、これからどうすれば楽しめるのか。
そういう感覚が、常識的に身に付いているように感じる。

自分のことならともかく、他人が感情的になることは、とにかく極端に嫌がる。
まあ、僕だって周りの人間が感情的になるなんて嫌だが。
それがどのくらいなのかというと、議論が成立しないほどだ。
普通、議論をするときは反論をする。
何らかの意見があって、それに対する反論がないとなかなか議論なんてのは成立しない。
しかし、ただ対立する意見を示したということだけで、「逆ギレ」などと称して
そういう行動を戒めるような風潮がある。

そもそも、なぜ「逆」なのかと言うことを考えると、
このことが示す根本的な問題に思い当たる。
「逆」と言っているのだから、当然、逆でない元のものが存在する。
それが、最初の意見だ。
つまり、普通にただ意見を提示するだけで「キレた」とし、
それに反論すると「逆ギレ」などと言うことが現実としてあるのだ。

幸いなことに僕自身は、そういうことを言われた経験はあまりないが、
それでも、周りにいる人間によっては、そういうことを言われることもある。
では、そんなことを言われるとどうなるかと言えば、ことは単純。
議論が成立しないのだ。先ほどは成立しにくいと書いたが、
そもそも意見の提示すら阻まれるような雰囲気では、
成立しにくいという表現では控えめすぎる。
成立しないと言うべきだ。

本来議論を闘わせ、互いを高める場であるべき大学ですらこうなのだ。
社会一般にもそのような風潮はある程度存在するだろう。
議論を善とする価値観がないのだ。

だから、楽しみだけが善となる。
過去のことは振り返らないという風潮があるので喜びもない。

それから問題なのは、木を見て森を見ず、という態度に関して。
まあ、一般的には、そのような態度は悪いとされている。
しかし、考えてみれば、物事の全体を把握して、冷静に自体を傍観しているような人間が、
圧倒的な行動力で一直線に突き進めるとは思えない。
そういう人間はみんな、どこか視野の狭い部分があるはずだ。
自分の目標とすべきことだけをにらみ、他は捨ててしまっているのだ。
そうでもしない限り、他の人間が為しえないことを成すなんてできないだろう。
時には細かいことを忘れ、すべてを1つのことに集中することも必要だ。

だが、そういうことに対する価値が、異常に低く見られている。
夢を持つことは大事だと言いながら、
夢に向かって進みはじめた人間に対しては、みんなで足を引っ張る。
夢を持たず、漠然と生きている人間の群に無理矢理放り込もうとする。
そのうち、多くの人間は夢から覚め、現実を見据えるだろう。
現実を見据えてしまっては終わりだ。
障害を冷静に認識してしまっては、その障害を乗り越え、突き進む意欲など湧かないだろう。

それで、いいのかもしれない。
みんながみんな夢を見て、それぞれ勝手なことをやり始めたら社会は成立しない。
多くの人が世を見据えて、犠牲になることで社会は成立しているのだ。
ただ、そんなことでは、次代を築くことはなかなかできないと思うのだが。
ああ、今日も遅い。早く寝るようにしないと。

2002/8/26 3:09


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