Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2002年08月06日(火) 刹那的な生き方

2002/8/7 0:57
今日は、正午くらいに起きて、
それからあちこちに行って写真を撮りまくった。
憂慮していたバッテリーは、それほど使えないわけではなさそう。
…決して持続時間が長いとは言えないが。

とりあえず、今まで撮った分はすべてストレージした。
使い勝手が悪いと思っていたが、実際はそうでもなさそうだ。
結構いい買い物をしたのかもしれない。
まあ、そういうことは本来、買う前に知っておくべき事なのかもしれないが、
このようなことを詳細に調査するのは結構難しい。
こんなものでいいだろう。
ダメだったらそのときはそのときで、自分が悪いのだから素直にあきらめるしかない。

さっきから、台にセットしているのに充電が始まらない。
いったい何が原因なのだろう?
まあ、たぶん温度が高すぎるのが原因だと思うのだが…。
ストレージをしていたら、ずいぶん熱を持ってしまった。

どうもよく分からないが、一度充電器から外して、
再度充電をはじめたら充電が始まった。
どういうふうに動作しているのかよく分からないが、
機嫌を取ってうまくやってやる必要があるようだ。
最近の精密機器はその辺が足りない。
今使っているPCもそうだが、突然ストップエラーを起こして
ブルースクリーンになるからおもしろいのだ。
いつもいつも安定して動作するのは、
企業用としてはいいかもしれないが、家庭用としては少しつまらない。
もちろん、こんな事を望むユーザばかりではないだろうから、
企業としては安定度の高い動作をする製品を作って欲しいのだが。
僕がローエンドの製品を好んで使うのは、
価格が安いということ以外に、このような要因もある。
このような不具合があれば、他人には使えない、僕だけが使える機械になるのだ。

PHSもそのような要素がある。
大した問題ではないのだが、すべての情報を半導体メモリに記録している割には
動作が異常に遅い。
たぶん、記憶装置以外の部分がボトルネックになっているのだろう。
PHSは性能の割に価格が安い。
たぶん、処理装置の部分でコストダウンを図ったのだろう。
そうとしか思えないくらい、処理が遅いのだ。
これも、僕は慣れたから普通に使えるが、
他の人にこのPHSを持たせると非常にイライラさせることができる。

写真を撮るついでに、64MBのSDカードを購入した。
なぜ128MBや256MBのSDカードを使わないのかという疑問もあるかもしれない。
確かにもっともな指摘だ。
これは、経済的な問題ではなく、PHSとデジカメ、双方の機能的な問題だ。
どちらも、64MB以上のSDカードを使用することはできないのだ。
PHSはともかく、デジカメが64MBしか使えないのは少々少ない気もするが、
僕個人だけで考えれば、これはまったく問題ない。
どちらにしろ、PHSに合わせるつもりだったからだ。
ちなみに、これで5000円だ。昨日と合わせると40000円近い額になる。
僕の預金総額が300000円程度だったから、あまり少なくない額だ。
全体の6分の1を使用したことになる。
…少し、アルバイトを探すか。

そのあと、家庭教師に出向いた。
夏休みも家庭教師とはなかなか熱心…と思わされるが、
実際は自分一人では夏休みの宿題をやる気が起きないということらしい。
まあ、僕としてはこれで貴重な収入が得られるのだから、もちろん文句を言う筋合いはない。

結局彼の集中力は、最後まで持続しなかった。
そもそも、2時間というのは単位時間としては長すぎるのではないだろうか。
実際に2時間集中できる人間は相当持続力のある方だと思う。
根拠は忘れたが、一般に人間の集中力は1時間半程度しか持続しないと言われているからだ。
まあ、そうは言ってもこれは契約だ。
契約している以上、努力はしなければならない。

彼と話していて、僕は刹那的な生き方に強烈な憧憬を覚えた。
前にも一度書いたが、「憧憬」は「しょうけい」と読む。
「どうけい」は慣用読みだ。
そんなことはいいとして、そのような考え方も、悪くないのではないかと思ったのだ。
理由は極めて簡単だ。
彼らのような考え方をする人はみんな述べることだが、
将来のことばかり考えていては、今が楽しくないから。それだけだ。
あとの事なんて考えていないから、
持っているお金をすべて使い切ることができる。
あとの事なんて考えていないから、
高校で授業も受けずに遊ぶことができる。
一般に悪いとされることだが、社会人になってしまえば
このようなことは絶対にできない。家族がいればなおさらだ。
であれば、生徒や学生という身分のうちに
好きなことを好きなだけするのも悪くないではないか。
僕だってかなり好き放題やって来たが、それでも相当に我慢を重ねてきた。
すべき努力はしていないが、かと言って遊びほうけていたわけでもない。
ほとんど無意識のうちに、自制が効いているのだ。
そんなとき弟を見ると、ほとんど家にも帰らず
彼女と一緒に好きに遊んでいる。
お金がなくなれば僕に無心し、また一生懸命に遊ぶ。
大学は、単位が取れればそれでいいと割り切っている。
これもまた、1つの人生観だし、少なくとも本人は幸せな時間を過ごせるだろう。
そして、幸運にも今の日本は、このような生き方が許される環境にある。
許されるのなら、それを精一杯楽しもうとすることは、ある意味当然かもしれない。

自分の将来を見据え、人生のプランを練り続けることは、
ある意味ではまわりが見えていないとも言える。
本当に優れた能力を持つ者、あるいはそれだけの努力を重ねている者ならともかく、
努力もせずに自制だけしてもあまり意味はないだろう。
であれば、環境に合わせ、今を楽しむことはある意味で最高の選択だ。
どうせこの先のことなど分かりはしない。
未知の世界に道を切り開くだけの能力はない。
他人に与えられたレールを進むのならば、中途半端な能力などあってもなくても大差はない。

とは言え、今更そんな生き方は、僕にはできない。
彼らはずっとそんな生き方を追求し、彼らなりの感覚を身につけてきた。
そして、多くの場合その感覚を頼りに物事を判断している。
僕と彼らでは、その判断基準が決定的に異なっている。
だから、僕が彼らのようになることはできない。
それは、彼らが僕にならないのと同じくらい決定的なことだ。
ただ、僕が「なれない」のに対して、彼らは「ならない」。
人の憧憬の対象にならない生き方など、価値はないのかもしれない。

なんだか、ここのところずっと、
日記を書くときはボーっとしている。
あとから読み返してみると、内容が前後でつながっていないことが多い。
なぜなのだろう?やはり暑いからだろうか?

2002/8/7 2:06


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