「華の碑文」(杉本苑子)を読みました。 観阿弥・世阿弥親子を描いた歴史小説です。お、面白い…! 芸に生きる者の、苦悩と喜びが余すところ無く、描かれています。 物語は、世阿弥の弟の視線で語られるのですが、この弟の兄への傾倒ぶりが凄いです。
「兄さんの仏は能だけど、僕の仏は兄さんだ」 長い兄への片恋。同じ道を歩みながら、ついに力量的な隔たりは永遠のものとなってしまったけれど、今、たった一人の弟として、兄の心へぴったりと寄り添えた気がする。
という、晩年のセリフに、こっちが照れてしまいそうです。本当に、弟は、6歳くらいの時から兄にぞっこんなのです。私から見れば、兄に比べて苦労の少ない人生だと思うのですが、弟は(兄の才能に比べると、自分は何もなし得ていないのでは?)と悩んでます。
兄の世阿弥は世阿弥で、不幸な幼少期ゆえか、誰も心底から愛そうとしない人です。ひたすら、能の美だけを追い求め、「例え、家が滅びても、能が残れば良い」と言い切るくらいです。その言葉の通り、世阿弥の息子達は不幸に見舞われ、亡くなったり、行方しれずになります。世阿弥自身も島流しが決定。残りの時間、能を残すため、息子の仇である甥に、能を教えることになります。 どんな苦境に見舞われようと、少しも揺らがず、ひたすら能のために尽くす姿は、ある面では非道ですが、清々しくもあります。世阿弥の言葉の通り、能はそれから500年以上も残ることとなる…ということを、現代の私は知ってるわけで、感慨深いですね。
もう一つ、面白いなと思ったのは、観阿弥の仲間兼ライバル、近江座の犬王です。 ドラマチックな筋立ての観阿弥作品と違い、犬王は、ひたすら舞の美しさだけを極め、一般大衆の目には退屈と写ります。が、識者の評価は高い。 犬王は、「大衆は飽きやすい。私は、観阿弥のように観客に合わせたものではなく、永遠に残る美を作り出したい」と言い、人気が衰えようとも、ひたすら己の信じる道を行きます。 観阿弥の死後、進むべき道を見失った世阿弥は、この犬王の言葉に感銘を受けます。そして、観阿弥作品から俗っぽさを除き、犬王の良さを取り入れ改良した、新しい作品を発表します。 この辺、現代にも通じる問題だなと思いました。ひたすら芸術性を追い求めると読者が置いてきぼりになるし、かといって大衆性一筋では、時代が変われば飽きられる。世阿弥は、その二つを上手く融合させたわけです。 近江座は、犬王の死後、無くなってしまいますが、世阿弥達の観世家は現代まで残りました。
人間ドラマとしても、その時代を知る歴史物としても、また芸術家の葛藤物としても面白かったです。
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