鶴は千年、生活下手

2003年11月17日(月)

他の人の日記を読むのは好きだ。
だが、読んでいてせつなくなることもあることは確か。
読んでいると、自分がなんて家庭人らしくないのだろうと思い知
らされてしまう日記とか。(笑)
サイトも同様で、いやぁ、そんなにいいお母さんにはなれないや
って思わされてしまうサイトとか。(笑)

できる人とできない人の違いは、やるかやらないかなのだろうと
思うのだが、潜在能力にも関係はあると思う。
やってもできないってことだってあるのだから。
やってもできないからやらなくなるという悪循環もあって、それ
こそ、やったらできる人には分からない感情だろうと思うし。

それと、知らないことはできないのは当たり前。
知らないからやらないというのと、知っていてもやらないという
のは全然違う。
だから、知らないといって非難することは誰にもできないと思う。
知ろうとする意欲がないのは、少しは非難されて仕方が無いのか
もしれないが、それだって知るための方法を知らなかったり、そ
の方法をとることができなかったりすることだってあるのだから。

それから、知っていてもあえてやらないという場合は、その人な
りの理由が有るからだろう。
それは、他人から見たら些細なことなのかもしれないが、本人に
とってはとても大事な理由だったりするのかもしれない。
その理由をもとに、やる場合とやらない場合を天秤にかけて判断
していることだってあるだろう。
まあ、ただ嫌いだからとか、面倒だからということもあるが。

「信じられなーい」という言葉が嫌いだと書いたことが有るが、
その気持ちの根底には、今書いたような意識が有る。
知らないことと、やらないことは違う。
それに、自分の知っている常識の範囲で、他人を測ることも嫌だ。

料理だって、洗濯だって、掃除だって、仕事だって。
それに性に関することだって、知らないことを知った時に信じら
れないなどと言うことはしないようにしようと思っている。
自分が当たり前のように知っていることを全く知らない人に出会
ったとしても、それは「信じられない人」ではなくて、自分とは
育った文化が違う人だということだと思うのだ。
もちろん、逆の場合もあるのだし。

そういうところを自覚していないと、誰かと一緒に暮らして行く
ことはできないのかもしれないなぁ。
まあ、我慢できないことは、我慢できないと言えばいいのだし、
話し合って妥協できることは妥協すればいいのだろうが。
その妥協する部分がどれくらい少なくて済むのかが、一緒に暮ら
すポイントなんだろうと思う。

誰かと一緒に暮らして行けないということを自覚していることは、
かなり辛いことなのかもしれない。
たとえ、その本人がそうは思っていないとしても。
わたし自身が、夫と暮らし始めるまでは、誰かと一緒には暮らし
ていけない人間だと思っていた。
それは、あきらめにも似ていた。

ただし、公共の場でも常識(マナー)は別問題で、知らないのな
らば教えてあげるくらいの余裕が前もって必要なのかもしれない。
でも、これだって、いろいろなんだろうなぁ〜。

自分の知っていることを知らないでいる人を相手にするのは、け
っこう寛容さが必要なことなんだと思う。
その人に対してどれだけ愛情(友情・親近感)を持っているかが、
妥協したり許せたりするする重要なファクターなんだな。

 許せないと思った人への愛情は偽物だったと知るまで5年(市屋千鶴)


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市屋千鶴 [MAIL]