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夢見る汗牛充棟 DiaryINDEX|past|will
おれは、臨戦態勢にあった。寝ること、すなわちこれ戦いなの。 「ねーこ、ねこ、ねこぉ」 サトコはふざけていつもおれを呼んだ。 おれは、軽く尻尾の先だけ振って応える。立ち上がって飛びつくなんて軽々しい真似は、子どもがすることだからだ。 サトコはつまらながって、ますます「ねこねこ」と言いはじめる。しまいにゃ、おれ、面倒になって、尻尾を振るのもやめちまう。だいたい、おれの名前は“ねこ”じゃない。遺憾だって意思表明のつもり。頑として無視しし続けていると、ごうを煮やしたサトコは、おれをひょーいと抱き上げてしまう。 「うあーん」 おれは、しかめ面で重々しく抗議をする。実は、期待に胸をふくらませてさ。 サトコは嬉しそうにおれに頬をすり寄せて、ついでに器用な手指で、こちょこちょとくすぐり始める。耳をぺたんと押しつぶしたり。軟らかい足の裏を、ぐにぐにマッサージしたりだ。快楽の殿堂だなありゃ。おれは、ぐでぐでになっていく。「ぐるぐるぐる、ぐずぐずぐず、きゆぅぅ」 鼻が鳴ったり喉が鳴ったりして忙しい。大人にはあるまじき醜態だが、生理現象なのでいかんともしがたく。 そんなわけだ。……って、わかんねえよな。 ともかくおれには、肉球が未だ軟らかなベビーピンクだった時分から、口癖のように言いきかせられていたことがあったの。 「いーい?」 サトコは言った。抜かりなく両手で、おれのことをなでくりながら。仰向けになって床でぐんにょりしているおれときたら腹をつつかれても伸びたまんまだった。 「もう、緊張感がない子ねぇ」 サトコはぶつぶつ言ったが、仕方がなくないか? この場合。 サトコがひたすら言い聞かせたことはただ一つだ。 トイレはネコシーツでとか、ゲロはフローリングの上で、なんて了見の狭いことをサトコはくだくだ言わなかった。 ――百年生きて立派な猫又になってね。 猫又ってのは、とにかく長生きするとなれるらしいネコの変種だ。 尻尾が二股に分かれるまで気合を入れて生きるのがこつなんだって。 「どう? 頑張れる?」 その度にサトコは、覗き込むようにして額を押し付けてきた。 いつも「あーん」と応えた。そうすりゃ、サトコが笑ってくれるからだ。 「おお、そうか。猫又目指すか。えらいぞ、ねぇこ」 再びもみくしゃにされる、おれ。 だから、おれの名前、ねこじゃないって。 「ねこさぁん?」 「なんだかなぁ。困っちゃうなぁ。無視はとっても切ないんだなぁ」 困り果てた声と、ふうって音がした。めげもせず、おれに呼びかけ続ける奴。こいつは、おれが投網に絡めとられて引っこ抜かれる一部始終を、側でじっと眺めていた奴だった。いやな奴だ。物腰はやわらかいけど、絶対いやな奴だ。―― そいつが、疲れたって風にため息ついた音だった。ざまみろだ。 「……そういう頑なな態度。おいら、困っちゃうんだなぁ。そりゃあさ、昇天は各個人の自由意志に任されるべきだっていう学説だって確かにあるんだ。おいら自身も無理強いは良くないっていう考えには反対じゃないし。こういう仕事だからこそ深い愛が必要なんだし。うん。だから、強引な牽引したくないのよ。でも、でもね、環境保全からみても、明らかに一緒に来てもらうほうが望ましいの。標準値を超えた“ものでなし”が物質界に与える影響については、まだまだ解明されてないからね。このことは、輪廻監査機構の公式見解にもあるんだよ。ほら、牽引手引書の第一章第三節のここんとこなんだけど――」 大量の言葉が、右の耳から左の耳へさわやかに通り抜けていった。 わけわからん。 おれが目を開けたのは、べつに演説に感銘を受けたからじゃない。 ふいに鼻先をくすぐった何かのせいだ。ひらけた視界に、細くて赤い紐がひらひらした。目にしたおれは、むずむずした。こういうの、非常に弱いんだ。ほとんど反射で動いてる。 おれは、むくりと起き上がりざまに前足で赤い紐をひっかけようとする。 すかっと空振りする右前足。しまった。 「あ、起きた」やつが、目を輝かせて言った。 小さい両手で、小さい本を開いている。開いた本からは、おれの衝動を誘ったしおり代わりの赤い紐がたらりと垂れていた。ええ、腹たつな。 「きゅきゅきゅ」 やつが笑うと髭が小刻みにふるえた。 「嬉しいな。やっと、わかってくれたんだね。おいらの気持ち」 感極まって、抱きついてこようとするもんで、おれは毛を膨らませてきっぱり威嚇する。 「ちっとも、わかんねえ」 「……んじゃ、ちょこっとだけ輪廻監査機構の公式見解、読んでみる?」 上目遣いされたって、可愛くなんかないぞ。 「ぜったい、読まない」 言い切ってやったら、やつはしょんぼりと肩を落とした。 やつは、ウエストポーチを装着した二足歩行のドブネズミだ。大きさもそんなもの。濃い灰色で、固そうな剛毛。ちょろりとした赤黒い長い尻尾をしたやつ。はじめは齧られるかと思って、おれ、ぞっとしたけれど、見た目に反して物腰は丁寧。 おれの傍らで「おいらと行こうよぅ」としきりと勧誘をかけるも、進展なくはや数日のお付き合い。ドブネズミは、ごり押しせず、辛抱強くおれから離れない。 ドブネズミは、諦めたのか本をぱたりと閉じると、ご丁寧にうんとこしょとウエストポーチに仕舞い込んだ。それから、大げさに短い両手を広げておれに迫る。 「あっちは、いいよぅ。マタタビ酒は美味いし、猫ちゃんはきれいだ」 「酒にも女にも興味ない」 「あ、なーんだ。ねこさんてば、去勢済かぁ」 ドブネズミはぶつぶつ言った。「どおーりで、大人気ないと思ったよ」 「うるさい。うるさい! おれは、立派な、猫又になんの。ほっとけ」 こんなドブネズミの勧誘になど負けるもんか。おれ、ぜったい約束を守るから。二つに分かれた尻尾を胸を張って見せびらかすんだ。そしたらサトコはすごく喜んで、おれを誉めて、きっとちやほやしてくれる。 おれは、もう一回うずくまって、そっぽ向いてふて寝の体勢に入った。 もう、完全無視だからな。こんなやつ。 ドブネズミは、とてととと、と近づいてきたらしい。足音がした。そんで図々しくもおれにもたれかかった。ほとんど重たくないので放っておく。悔しいけれど重さや触れられた感触が久々なのでちょっと嬉しかったのも本当だ。――もう七日も触れられてないんだ、おれ。 「ふう。いいクッション」 一息ついた、さも楽ちんだというお気楽な声。そして、ドブネズミは続けた。「……でもねえ、ねこさんてば。もう身体も燃やされて灰なんだし。身体がないとなれないんじゃなの? 猫又って」 「……」 「だいたいね? おいらが思うに、死なないで長生きして見事成るのが、猫又なんじゃないのかなぁ。どうなの? 仮に身体があったとしてもね、亡骸に戻っちゃ、そいつはゾンビなんじゃないのかなぁ。ゾンビ……おわっと!!」 ドブネズミが、すってんころりと転がって奇声を発した。おれが、急に毛を逆立てて飛び起きたせいだ。ドブネズミも痛いかもしれないが、はっきり言っておれはもっと痛かった。いいパンチだった。 おれは喚いた。 「はい、はいはいはい! うるせーよ! わーるかったな。そーだよ。その通りだよ」 上体を起こしたドブネズミが、ぶるるんと頭を振って腰をさするのなんかどうでもいい。 「どーせ、おれの身体はもう六日も前に燃え尽きて、灰だよ。灰。どーせ、紙の箱に入れられて、花で飾られて、カリカリのマグロ味パックなんかまで一緒に入れられちゃって、もくもく燃やされちゃって、とっくに煙だよ。煙」 喚きつつ、がむしゃらに前足を使った張り手を繰り出すおれ。右、左。 ドブネズミの奴「ひー!」とか言いながらも、ことごとく避けた。 右。左。右。 こんにゃろう、華麗な足捌きだ。 「よけんな!」 「ね、ね。落ち着いて?」 「うるせー、落ち着けるか!だからなんだ。だからなんだよ!」 往生際が悪いとか、言いたければ言え。 おれはこうして、かれこれ七日間もおれが好きだった縁側の板の上でがんばっているのだ。ちびでまだ上手に爪がひっこめられなかった頃から馴染みの場所。板張りのそこかしこに、無数の引っかき傷がついている。これ、ぜんぶおれがつけたんだ。 座布団が、一等陽の当たる場所にすうっと置きっ放しになっている。その前に置かれた、器の中に刺さっている細いものが絶えず煙を昇らせていく。おれが今、たったひとつ、感じることのできる匂いの発生源がこれ。おれのために燃やしている煙だから、嗅げるんだとドブネズミは言った。 毎日、朝晩に開封したてのカツオブシの入った小皿が置かれる。これもおれのためだってわかってる。でも、カツオブシって、どんな匂いだっけ。あんなに好きだったのに、新鮮な筈なのに、今のおれにはこの匂い、わかんない。 「お花よりも、こっちがいいよね?」 日が昇る頃に、沈む頃にサトコは、遠くを眺めてちょっと笑う。手をあわせて。――安らかにしてる? と聞くんだ。空に。 おれは、ここにいるよって。何度、呼んでみただろう。 「……だからね、取り戻せないものがあるってどうして認めらんないの?」 おれの激情が収まった頃、ドブネズミが静かに言った。 だってさ。 「いっちゃやだって言ったんだ。お願い、いかないでって」 サトコが。
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