夢見る汗牛充棟
DiaryINDEXpastwill


2006年05月28日(日) ねこと約束 2

 おれが、耳で聞いた最後の声だ。
 サトコの声は、頑丈でしなやかな縄だった。おれの意識はそれにしがみ付いていた。ドブネズミの奴がおれの側に立っていた。
 最近なんでこんなに眠いんだろうと思っていた矢先、まるで意思をもった投網みたいなものがいつの間にかおれをからめていて、強い力でおれを引っ張り出そうとした。外へ。おれと投網の戦いが始まった。
 おれは、おれを引きずり出そうとする力に逆らった。本気で爪を立てて、渾身の力でサトコが祈りで編み上げた縄にしがみ付いていた。
 ドブネズミは、どちらに加勢もせずにただ側にいて、おれと投網の戦いを眺めていただけだ。
「でも、ねこさん。きみは、けっきょく、いっちゃったんだ」
「……ぅ」
 長い戦い。薄らぐ意識。一瞬気がゆるんだ時、おれの爪から縄が外れた。あっけなく。おれは、もう一度と伸びてくる縄に前足を伸ばした。めいいっぱい、爪だって伸ばした。サトコの声に向かって。――届かなかった。あんなことなら、爪なんて切ってもらわなきゃ良かった。
「……あれは、爪が滑ったんだ。やり直しを要求する」
「だから、ねえ」
 困ったように首を振るドブネズミを横目で見ておれは口元を歪めた。
 ネコだって、ニヒルに笑いたい。―― 時にはさ。

 「うそだよ。ほんとはもう、わかってんだ」
 おれは、うっそりと座り直した。「七日もおれにつきあってくれて、ありがとさん。ごくろうさん。でも、おれ行かない。おれ置いてとっとと消えろ。猫又にはなりそこなったけど、せめてずっとここにいるんだ。こっから動かない」――さびしいけどな。
 ドブネズミは絶句した。
 だからばいばいの代わりに、尻尾を一振りサービスしてやった。
 今日も、そろそろサトコがカツオブシを持ってくる時間。
 おれは、目を閉じる。




「なあ、なあ。起きてくれよう」 
 つつかれて、再び目を覚ました。
 呆れたことに、ドブネズミは、まだおれの側に居た。
 おれはしかめ面をしながらのそりと身を起こしたけれど、尻尾だけは真っ直ぐぴんと立っていた。嬉しがっている、おれ。
「まだ、帰ってないのかよ」
「うん。おいら、気だけは長いからさ」
 きまり悪そうにドブネズミが頭を掻いた。
「……なんなんだ?」
「ほら、そこ、そこ見て」
 ドブネズミが指差した先におれは、目をやった。

 縁側は、天気がいいので今日も開けっ放しだった。
 一匹の子猫が上がりこんで、一心不乱にカツオブシを喰っていた。
「あー、腹へってんだな」
 見たって別に、腹は立たない。おれには、もう必要ないものだから。
「あらら?」 スリッパの音。次いで声がした。
 サトコが現れても、子猫は逃げなかった。慣れているのか、無邪気なのか。逃げるかわりに、「にぃ」 と元気いっぱい愛らしい声で挨拶した。
 翻訳すれば、「いただいてますっ」ってくらいなもんか。
 サトコは、くすくす笑って呟いた。
「ああ。おやつ取られちゃったわねぇ」
 知るか、喰わない奴が悪いってな感じで子猫はカツオブシを喰っていた。
「……あのね、本当はカツオブシは身体に悪いんだよ。だから、あの子もこれ大好きだったけど、あんまりあげなかったの。だってね、栄養が偏っちゃうでしょう?」
 それから、サトコは、両手を合わせた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 サトコはもう一度奥へひっこんで、今度は片手にもう一皿のカツオブシを持ってきた。ついでに反対側の手には猫缶だ。猫缶の中身は、速やかに子猫の喰っている皿に空けられた。サトコは残ったもう一皿のカツオブシをもって庭先に出た。子猫のおかわり用じゃなかったみたい。
 しゃがみこんだ姿勢で、動かない。何をしているのかと思ったらすぐに煙が立ちのぼった。煙は、カツオブシの匂いがした。
――そっか、これがカツオブシの匂いだっけ。おれは、思い出した。涎が湧いた。なんて極上、なんて美味そう。
 サトコは、カツオブシを煙に変えてくれていた。
「うん、そうだ。こうすれば、これはお前だけのものだよね?」
 サトコは、目を細めて空を見上げていた。
 どうして、そんなやさしい目で空を見ているんだ?おれは、ここ。縁側。
 おれは、ここにいるんだよ。
 極上ハナガツオ風味の煙が鼻と目をむず痒く刺激するせいで。
「おーい。泣くなよぅ」 ぽん、ぽんとドブネズミの小さな手がおれの身体に触れた。慰めようってのか。生意気なドブネズミ。
「ないてにゃい。これは、煙が目にしみたんだっ」
「よしよしよし」
 ブネズミが、ちまちまと小刻みにおれを撫でていた。
 おれのやせ我慢もここまでだった。

 にゃあ。にゃあ。にゃあ。にゃあ。にゃあ。
 泣いた。泣いた。泣いた。もう、止まんない。
 恥も外聞もなくおれは泣き喚いた。

 みい。みい。みい。みい。みい。みい。みい。

 奇妙な二重奏だ。
 気がつけば、サトコの目の前の子猫も鳴いていた。心細い子どもが母さんを呼ぶような、か細いけれど懸命な声だ。おれには、わかる。あの子猫には、ここが猫生の勝負のしどころだってことが。家を飯をぬくもりを手に入れられるかどうかの分かれ目。声を聞いたサトコは、それはもうやさしい目をした。おれが、大好きだった目だ。
 おめでとさん。サトコはやさしいんだぞ。お前の未来は安泰だ。
 ちきしょう、くそったれ。その手は、その目は、おれのんだ。
 おれのだったんだ…………。でも、……幸せに、なれ。

「うちの子になる?」
「にい」
「よし、いいお返事。そうか。なるかぁ」
「にい」
「……うちにね、ずーっと居たの。すっごく甘ったれの、すっごく可愛い子がね」
「にい」
「十七年頑張って一緒にいてくれたんだよ」
「にい」
「あの子にね、猫又になれってよく言いきかせてたの。本当にそうだったら、嬉しかったって今でも思うけど、でも、ちゃんといけたかなぁ。あっちで誰かにいやってほどなでてもらっているかなぁ。寂しがりやだから。心細くて泣いてないかなぁ」
「にい」
「大丈夫かなぁ」
「にい」


「……すっごい甘ったれの、すっごい可愛い子?」
 隣でしきりと首をひねっているドブネズミに鉄槌を食らわす余裕もなかった。さらに、泣いた。子猫に勝手に返事をされた悔しさに。その他もろもろの寂しさやら清々しさやら。複雑に入り乱れた気持ちで、にゃあにゃあとおれは泣いた。

 カツオブシ味の香ばしい煙は、おれの食欲をそそりつつ空に昇っていった。

 そんで、すっかり声も枯れて、おれが泣くのにもいい加減飽きた頃だ。
 泣いて、洗われて、洗われて、洗われて、疲れてぼんやり空を見てたおれに、もったいぶって、大真面目にドブネズミのやつが聞いた。
「ところでさ、あのカツオブシ、何処まで行くのか知ってる?」
「……知るもんか」
 おれは、そっぽ向いた。泣き喚いたせいで、きまりが悪い。
「あの世のでっかい食卓の然るべき空席まで行くことになってるのさ 」
「……」 腹の虫が七日ぶりにぐうと鳴った。くそう。




「いっぱい手間かけさせて悪かったな」
 謝られた当のドブネズミはきょとん、とした。
「いやいやいや。楽な方だから。ねこさんてば、ぜんぜん悪いほうじゃないから」
 ドブネズミの口調は、まったくのお世辞で言っているわけでもなさそうだった。これで良いほうならいつもはどんなんだ? 一仕事に何日かかるんだ? そんな疑問が渦巻いた。
「歩合制だから、日数かかるのってけっこう辛いんだけどね」
 ドブネズミは、よよよと泣きまねをした。ばかだ。

 そういや、気になっていた事がある。
「どうしてドブネズミなんだ? 本当は、ネズミじゃないんだろ?」
「うん?」 ドブネズミは、つぶらな目をぱちんと瞬いた。
「この姿はね、サービスの一環。おいらね、どんな姿にでもなれるけど、そんならいっそ、追いかけてて楽しいものがいいかなぁって。ネコだったら、やっぱネズミだよね?」
 根本的に間違えている。おれは、教えてやった。
「いまどきの、由緒正しい家ネコ様は、ネズミなんか追いかけない」 反対に追いかけられることは、あってもだ。
「ええ、うそ」
 ドブネズミは、驚いて、次いでがっくりとうなだれた。ついでに髭までしおれている。「大好評間違いなしだと思ってたのにぃ」
「それは、古きよき時代のネコだろ?」
「……じゃあ、ねこさんが、追っかけて楽しいものってなにさ?」
 そうだなぁ、とおれは、答えた。考えるまでもない。
「おれの好きなのは、サトコが作ったアルミホイルを丸めたちっさいボールだ!」
 銀色のぴかぴかしたやつ。あれを投げられたら、おれは何処までだって追いかけて行く。
「えええ?」ドブネズミは、はなはだしく不本意な顔をした。
「由緒正しい水先案内係のおいらに、アルミホイル丸めた銀ボールになれだってぇ?」情けなそうな声。
 おれは、確固たる意思を込めて言い切った。
「なれ」
 
 ちょっと、えらそうだったか?
 銀色ボールが空飛んだなら、下からは星みたいに見えるかも、なんて思ったんだ。そろそろ一番星が顔を出すから。
「うううう」苦悩しながらドブネズミは言った。
「わ、わかったよ。おいらも男だ」
 どうして、ドブネズミはこんなに寛容なんだろう。すごくいい奴だ。
 おれは、ドブネズミの身体をざりざりと舐めた。困らせたお詫びとささやかな感謝を込めてだな。
「う、きゅきゅきゅきゅ。よっ、よせやい」
 ドブネズミは、変な声で笑いながら、身を捩っていた。そういや、おれの舌って痛いんだ。

 そんじゃあ、と起き上がって身体を弓のようにして伸びをした。
 大丈夫。身体は、軽いし。よく跳べそう。
 ドブネズミの姿がふっと消えた。あとにはくしゃくしゃに丸めたアルミホイル製銀色ボールがひとつ。質感もサイズも、光沢も、丸め具合もちょうどよくって、おれは満足だ。ごく自然に喉が鳴った。

「ねこさん、ちゃあんとおいらを追っかけてくるんだよ」

 銀の小さなボールがそう言って、きらめきながら思いっきり飛んだ。
 おれは、ときめきを感じながら、力漲る後ろ足で思いっきり跳んだ。
 前足を、爪を伸ばして。きらめく、光を追いかけて。
 高く。高く。高く。


おわり




ぷんさんへ。
きみは、最高のねこさんでした。
願わくば、天空の世界で幸いであらんことを。
天界の食卓で美味しいご馳走にかこまれ
たくさんの神さまたちがきみを撫でてくれますように。
そうして、一瞬たりとも寂しいことなく体を休め、
また、わくわくしながら宇宙のどこかに生まれてきますように。
きみが今日も大好きです。ありがとうね


恵 |MAIL