Leonna's Anahori Journal
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先週。親戚のおばさんから電話がかかってきた。或る写真が必要なのだけれど探してくれないかとのこと。以前、私宛の手紙に同封した記憶があるという。たしかにその和服姿のおばさんの写真は送ってもらった覚えがあるので家中探してみたのだが、とうとうみつからなかった。
おばさんの写真は見つからなかったのだが、母の写真が出てきた。二十代後半位の頃の写真で留め袖姿でゆったりと微笑む母の上半身をななめ上から撮ったもの。セピア色に変色しているが、昔から私のお気に入りの一枚だった。
昨年母が亡くなったとき、私の住まいには仏壇も位牌も要らないけれどあのお気に入りの写真だけは飾っておこうと小さな写真立てを買ってきた。が、肝心の写真がどこに紛れ込んだのか、いくら探してもみつからなかった。その写真が出てきたのである。
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さっそく箱から写真立てを出して、件の写真を入れてみる。 すると、なかなか良いのだけれども、何かが違うのである。
どうやら私の中では、亡くなったときの母の顔が最終的な“母の顔”として定着してしまったらしい。それで、故人を偲ぶというような状況(心境)に、若々しい母の顔ではいまいちリアリティに欠けるようなのだ。 客観的にはあまり美しくなくても、本当の母の顔がいいんだけどな…
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ところが。 今日になって、写真の“若い母”に対する違和感が消えているのに気が付いた。いつのまにか若い頃の母と亡くなったときの母の顔、そのふたつのイメージが私の中でうまいこと統合されたようなのだ。
亡くなってからわりと直ぐにも書いたのだが、いまや母は変幻自在なのである。時間と空間を超え、姿を変えて、現在もメッセージを届けてくる。そういえば、これははっきりと断言できるのだけれど、母の死後、私は一日たりとも母を思わずに過ごした日はない。
それどころか、一日に幾度となく母のことを考える。これは母が生きていた時分にはなかったことだ。しかもそれはきわめて自然なことで、決してオブセッションというようなものではない。
ふーむむ。これではまるで亡くなった母との新しい生活が始まったようなものではないか。しかし死者というもの、その存在のなんと自然なことか…。はっきり言ってこれは、かなり素敵だ。

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