Leonna's Anahori Journal
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きのうのジャーナルは、なんかちょっとカタかったですね。うまく言えてなかった。
会ったこともない他人で、勝手に自分が影響を受けたと思っている人(作家でもミュージシャンでも、文化人でも)が亡くなったときって、いつもどうしていいかわからなってしまいます。
これからは何も言わず、書かず、早寝することにしようと思う。 -- 読売新聞の文化欄で、谷川俊太郎と高橋源一郎の公開イベントにおける対談(の一部)を読んだ。
この日『谷川俊太郎に捧げる詩』を本人をまえに発表した高橋源一郎。その後の対談で、「書くと全部長くなってしまう、説明しないと不安なのだ」と話す。ちなみに、『捧げる詩』は45分かけて45行書いたのだそうだ。
するとそれを受けた谷川氏、「長さで(高橋自身の)詩人の資質を殺しているかも。45分で3行がいい」。さらにとどめの言葉が「意味ありげなものが詩なんです」。
また高橋氏の「小説は本当の事を書くべきだと思っている。僕はうそがつけない。だから詩が書きにくいんじゃないか」という発言に対しては「詩は、自分の内面とか教養とか情念とかには関係ない。小説の方が人間世界に根を下ろしている。詩人は、いい悪いを超えている」、と。 …はぁ〜。スゴイんだな、詩人て。 ここのところ事実にこだわりすぎるあまり、自らの頭を思いっきり壁にぶつけているような感じの私。実は今日もひどく落ち込んでいたのだけれど、この“内面とか教養とか情念に関係ない”“いい悪いを超えている”という言葉にはショックを受けた。
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そういえば私も15歳くらいまではよく詩を書いた。とてもたくさん、ノート何冊分も書いていた。それが何故か急に恥ずかしくてたまらなくなって、ピタリとやめてしまったのだ。そして、それ以降は長い文章ばかりだ。(たしかにこれなら、説明や言い訳がいくらでも可能だ)
これって、本当のことを書かねばならないという常識に冒されて、ココロの自由さを失ったということになるのだろうか。…いや、そうとばかりも言えないだろう。だろうけれども、しかし。
そういえば大江健三郎もノーベル文学賞受賞後に「おそらく一番素晴らしいのは詩です。でもこれが一番ムズカシイ」というようなことを言っていたな。
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ところで私の好きな作家は、深沢七郎にしろ森茉莉にしろジュネにしろ、みんなちょっと逸脱してるというか“いい悪い”を超えてる人ばかり。ついでに“教養”とは無関係という問題児も多数。
これが何を意味しているかはワカラナイまま、そして、詩人ってスゴイ(ヤバイ)んだという認識を新たにしつつ、就寝。
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