風紋

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2004年08月24日(火) 落ち込んでいても話せた / 今日も話してきっかけを掴んだ / この曲がり角は。

昨日はとても気持ちが落ち込んでいた。落ち込んで落ち込んでどうすればいいかわからなくて結局何もできなかったという感じ。こういう時は、何をしても悪い方向に進むような気がして、結局何もしたくなくなるし、何もできなくなるということが私には多い。

しかし、昨夜、ある人に電話をしたくなった。…違う。電話をして話をしなければならないような気がした。それ以外には特に用事はなかったのだ。他の誰でもないその人と、他の誰でもない私が、他のどの日でもないこの日に話をすることが必要だという気がしたのだ(誰にとってどのように必要なのかよくわからなかったが…)。

当然、迷った。こんな落ち込んだ状態で人とコミュニケーションを取ってもよいのか? 私にも相手の方にも失礼ではないだろうか?

結局、電話をかけた。正直に、電話をかけたいきさつを話し「…こういう事情なんですけれど、私、話していてもいいのでしょうか?」と話すと、「いいでしょう。現にこうしてお話ができているから」と言っていただいた。それもそうだなぁ…と少し安心して話をすることができた。

暖かい気持ちと、安心感が残った。


今日は、師とも兄とも慕う先輩とお話をした。これもとても曖昧な形で私が「お話してください」と申し出たものだった。お話をしたいと思った理由には、私が、右にも左にも前にも後ろにも進めない八方塞がりの行き詰まり状態(と、私自身が思っている状態)であり、困っているから…という理由がひとつある。しかし、相談…という形でもないような気がした。とりあえず話をしたかった。

結果、時間的にも内容的にも非常に濃く、有意義な話ができたと私は思う。話の内容は、まだ消化しきれていない部分もあるし、ひとつひとつゆっくり考えていこうと思うし、今日思うことと明日思うこと、1週間後に思うことがもしかすると違うかもしれないので、しばらく言葉にならない状態で寝かせておこうと思う(あるいは、この場所ではなくて私的な文書としてまとめていくなど)。

迷いながら生きることも、傷や痛みをそのまま傷や痛みとして抱えて生きることも、それでもいいんだなと思った。迷ったり傷ついたり答えを求めようとする過程そのものが大事なのかもしれない。こんな小さい存在である私だけれど。

メモ程度に。これまで私は「やっとここまで来た。でもまだ先へ行きたい」と思っていたけれど、「先」がどこを指すのかわからない…という感じでいた。しかし、「先」の前に「今」は?今はどうなのか?ということも見えていないな、と。

日々考え方や感じ方が変わっていくのは自然なことだと思うけれど、その時その時で「今」はどうなのか?ということを問うていきたいなと思った。

考えて考えて考えつくして形にすること(文章でも写真でも詩でも…詩は書いたことがないけれど)。考えることに疲れたら、ぱこーんとあきらめて、すかーっと空を見て思いっきり周りの環境を五感で味わうこと。とりあえず、そこからかな。

踏み出す勇気。


自転車で家に帰る途中、とある曲がり角を、何も考えずにごく自然に曲がった。曲がり終えて数メートル進んでから、あ、と気がついた。“あ、しまった”という感じ。

…この曲がり角は、いつも曲がる曲がり角ではない。だが2年前、前の家に住んでいた時には、いつもいつもこの曲がり角を曲がって帰っていたのだということに気がついたのだ。

今の家に帰るには、本当は直進した方が早い。最近…少なくともここ半年くらいはそうしていた。その前も、この曲がり角を曲がって帰ることはなかった。

今の家に引っ越してしばらくの間は、うっかりこの曲がり角を曲がってしまうことも割と多くあった。反面、前の家のことを思い出すとつらいので、意図的にこの曲がり角を避けることもあったし、逆に、思い出したいがために意図的にこの曲がり角で曲がることもあった。いずれにしてもこの曲がり角を通過するのに、無意識のうちに気合いを必要としていることには違いない。しかし、ふっと気合いが抜けることがある。しかし、2年も経って、このようなことがあるとは思いもしなかった。

この曲がり角を曲がっても、今の家に帰れるので、そのまま帰った。この道、ほとんど通ることがなくなっていたなぁ。変わったところもあったし、変わっていないところもあった。公園の桜は、見事に鮮やかな緑の葉を茂らせていた。子どもたちが笑いながら駆けていった。

前の家のあったところは、すっかり更地になっていた。できるだけ何も考えないようにして、その場所を通過した。

ちなみに、説明を加えておくと、私が約2年前まで住んでいた家はとある事情で解体されている。そして約2年前に私たち家族は、前の家からそう遠くないこの地に引っ越してきたのだ。前の家の跡は別の用途に使われるのを待つばかりで、今は空き地になっている。つい最近、工事の手が入りはじめている。私の気持ちとしては、「前の家の跡」という漢字をあてるよりも「前の家の痕」という漢字をあてた方がよいかもしれないという気がする。

前の家のあったところを通過するのには、慣れたといえば慣れた。なんだかんだと言って私は要領がよく効率のよい方法を求めてしまうようで、目的地に近い道を通ろうとすると前の家のあったところを通過してしまう。無意識のように、見ないように、何も考えないようにしてきた。でも、こうして、前の家に帰ってくるのと同じ道を通って、この土地に辿り着くと、言葉では言いあらわせない思いが胸をよぎった。胸をちくりと刺されるような痛み?…今は敢えて言葉にするまい。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)