風紋
もくじ / この前 / この後
つい最近、「つらさや苦しさを心に抱えながらでも、(中略)同時に陽のさす方向を見続ける人であることを願います」との言葉を私に下さった方がいる。ありがたいと思う。
私は、どうしようもなく落ち込んだり、どすんと闇の中に落ち込んだりすることもある。特に私は感情の振れ幅が割と大きいという気がする(何となく、だが)。けれど、つらさを抱えていても陽のさす方向を見続けていることは可能かなと思ってはいる。たとえるならば、ぶっ倒れて一歩も動けなくなって寝転がっているしかない状態でも、視線はいつも空に向かっていて、いつかあの空に向かって飛び立とう、という感じに近い(我ながら、何だか、こんなたとえは、あまりにもドラマチックで照れるが…)。
同時に、あくまで私自身のために陽のさす方向を見続けていたいものだと思った。
つまり、「陽のさす方向を見続けている人である」と、他の人に思われたいから、そのような心持ちになって、そのような生き方をするのでないということ。私が、私自身のために、私の陽のさす方向を見続けていたいということ。
そのためには、他の人の生き方もじっくり見て、聴いて、触れて、全身で受けとめたいと思うのだ。気の利いた言葉ひとつなくてもよい。そういうかたちもあるね、と。それでこそ、私の太陽もより明確になってくるであろうし、私が私の太陽に向かって一歩を踏み出せると思うのだ。そういう一歩を積み重ねることができたなら、今はそれでいい。
明朗活発な人に見られなくてもいい。時には人前で泣いたり怒ったりすることもあってよい(子どもの頃から「明朗活発」とは程遠い人と見られがちだったので、明朗活発で愛想がよくていつも笑顔でよく気の利く人だと見られたかったのだ←ちょっと欲張りすぎ)。ただ、私の目指す方向へと、歩んでいきたい。周りを気にせず、しかし大切に見ながら。
「私の太陽」という言葉も、使っていて、すごくすごく恥ずかしい…。
もくじ / この前 / この後
|