風紋

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2004年04月02日(金) 桜にごめんなさい / 桜・残す・伝える / 鳩の足 /お茶忘れた

どうも私は、花が咲くと文章を書きたくなるらしい。

ここ数日で、ずいぶん桜が美しく咲く姿を見ることができるようになった。

「桜の木は桜の木として、年中変わらずそこにいて、桜の木なりに日々を過ごしているのに、どうしても桜の木に注目するのはこの季節だけになって、桜の木がそこにあるのを普段は忘れている」ということを、私自身が桜に対してごめんなさいと思っているのは、先日書いた通りだが、今日はもうひとつ、桜に対してごめんなさいと思った。

それは、あの桜とこの桜とその桜は「桜」という名称で呼ばれていても、それぞれ違う桜なのに、ひとくくりに「桜が咲いている」とみなしてしまうこと。ごめんなさい、と思う。

それは、例えば、私たちは「人間」という名称で呼ばれていても、それぞれの人は全く違う人で、AさんはAさんの生が、BさんはBさんの生が、CさんはCさんの生があり、どの人の生も大切だというのと似たような話で。

それでも、桜は桜として淡々とそれぞれの日々を生き、この季節にはそれぞれの木がそれぞれの花を咲かせるのは、すごいと思う。


桜について、もう1つ。

今日、携帯電話のカメラで、いろいろな角度から桜の花を撮影している人を見た。女性で、1人で。その姿を見て、いろいろと考えた。

この人の眼には、この桜はどう映っているのだろうか?

この人は、携帯電話のカメラで桜の花を撮ることで、何をどのように残したかったのか?

私の眼には、この桜はどう映っているのだろうか?

私が、この桜のことを何らかの形で残すとしたら、どのように残すだろうか? 写真で?言葉で?身ぶり手振りで?あるいはもっと違う形がある? そこから、私がこの桜のことをどのように思っているのかが浮かびあがるような気がするけれど。

そのようにして「私」が残した桜の姿を通じて、誰に何をどのように伝えることができるのだろうか?

伝えたいことは、伝わるのか?

…私によってしか残せないこと、私によってしか伝えられないことがあるということと、それは別に私に限った話ではなくて、それぞれの人が、その人によってしか残せないこと、その人によってしか伝えられないことがあるということは、それはそう思うのだけれど。


鳩の足は、健気で可愛らしくて面白い足をしている。

鳩は飛んでいることもあるけれど、歩くこともあるのだなと、当たり前のことを思った。


今日、ミーティングの時に部屋にペットボトルのお茶を持って入ったのだけれど、その部屋にお茶を忘れてきてしまった…と、思う。ちょっととんでもない場所に置いていたのと、ばたばたと退出したこともあって。

残ったお茶に未練はないが、誰か気がついて処理してくれていたらいいな…と思う。家に帰り着いてから忘れたことに気付いたんだよ…。


その時々で残しておきたいことは、ぽつりぽつりとあるものの、断片的な言葉にしかならなかったり、残す体力がなかったりして、こぼれ落ちているものがたくさんあるようにも思う、今日このごろ。

明日残してもいいんだよと頭では思いながらも、どうしても今、と思うのに、体がだるくて動けなかったり。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)