風紋
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| 2003年10月29日(水) |
近付いて来て欲しくて、近付いて来て欲しくなくて / 武器 / 泣く資格? / へぇ…。 |
“腫れ物に触るように私を扱わないでよ。普通に接してよ”と、言いたくなることがある。
一方で、“そんなに踏み込んで来てもらうと困ってしまうよ。そっとしておいてよ”と、言いたくなることがある。
たぶん、私はその両方の気持ちを抱えながら、バランスを取りながら(時にはバランスを崩しながら…?)生きていっているのだと思う。
私の心にとまっている詩に、吉原幸子さんの「祈り」(詩集「魚たち・犬たち・少女たち」より)という詩がある。
祈り
わたしを解き放ってください わたしは スティンドグラスの影にそまった 床のうえの 小さなしみをみつめているのです
愛がこわい やさしさがこわい かみつぶす思いの悔いがこわい わたしをいのちに誘わないでください わたしはどこへも行かない 笑わない ここに このじっとしたひとりの場所に わたしを解き放ってください
わたしの肩に手を置かないで ふりむかせないで わたしのみつめている小さなしみを 親切な 大きな掌で ふいてしまわないでください
(『続 吉原幸子詩集』(現代詩文庫 2003年,思潮社)(詳細)、p.53〜p.54より引用。本文3行目、12行目の「しみ」には傍点がついている)
この作品の背景などを全く知らずに、詩を読んで思ったことだけを書くのだけれど(吉原幸子さんの詩は私は好きなので、いくつかは知っているけれど)。
確かに私の中にこれに似たような気持ちがあることはあるのだけど、一方でそれとまったく逆の気持ち…つまり「肩に手を置いて」欲しい気持ち、「ふりむかせて」欲しい気持ち…も、私は持っている。しかし、時々は「肩に手を置かないで」「ふりむかせないで」と思うこともある。確かに。
また、私自身が、相手が「小さなしみをみつめている」時に、「肩に手を置かないで」「ふりむかせないで」という相手の切実な気持ちを無視して、「肩に手を置いて」しまっていたり、「ふりむかせようとした」り、「親切な 大きな掌で ふいてしまおうとした」り、ということをしてしまっているのではないかと振り返ると、申し訳なくてならなくなる。
少なくとも私自身については「肩に手を置いてほしい気持ち」と「肩に手を置いてほしくない気持ち」が、同居している(吉原幸子さんについてはどうだったのか、私にはわからないのだけれど)。
今、言えるのは、自分についても、自分でない人についても、「小さなしみをみつめている」時はそれを壊さないように大切にしたいということ…かもしれない。
○ 私は私でしかないし、私以外の誰でもないし、私であることだけを武器にして闘っていかなければならないのだな、と最近思っている。
○ “私には泣く資格などない”と思ってきたけれど、よく考えると泣くのに資格など必要なんだったっけ…?
○ 「トリビアの泉」を、初めてテレビで見た(でも少しだけ)。これが、あの「へぇ」か…と思うと、へぇ…と思った。へぇ…。
○ やや肩凝り。
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