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お休みの日。公式にも祝日(でも働いていらっしゃる方はたくさんいらっしゃる)。お彼岸の中日。ご先祖さまのお墓参りに行った。ありがとうございます、これからもよろしくお願いします、と手を合わせた。 昨夜眠って今朝起きたものの、どうにも眠くて、午前中少しと昼食後少し、横になっていた。眠っては駄目だ駄目だと頑張っていたのだけれど、少し眠り込んでしまっていた。 なまけもののようで恥ずかしいが(でも本当になまけものなんだから弁解のしようがないか…)、秋が訪れかけたこんな季節の朝や昼下がりに、「おふとんにくるまって、ほわほわ、とろとろと時間を過ごす」ことが大好きだ。涼しい風がほどよく吹いている日だとよい。お天気は曇りか、晴れでもそれほど陽射しの強くない日だとよい。 昨夜は寒かったのでもう1枚掛け布団を持ってきていた。布団にくるまって気持ちよく、とろとろ、ふわふわとしていた。こんな時間が、思う存分ずーっと続くといいのになぁと思っていた。けれどもそういうわけにもいかない。起きて仕事をしないといけない。だいたい、昼間からこうやって、布団にくるまっていること自体が、あんまり望ましいことではない。起きたらあれとこれとそれと…をしなければならない。 そう思うと、布団にくるまっていても何だか罪悪感に苛まれて、悲しいだけだった。夢の中でも、パソコンに向かってレジュメを作っていた。頭をからっぽにして、何にも考えないで、ずーっと、すとんと眠りに落ちることができればいいのに。…何のことはない。単純に「休みたい」だけなんだけれど。いや、休んでいるのだけれど(どっちなんだ)。 一方で、布団を蹴っ飛ばしてでも起き上がって、えいやっと飛び込んでいきたい世界がある。なりふりかまわず、無理・無茶・無謀を承知でやってみたいことがある。喩えて言うと「肩の関節がはずれてもかまわないくらい精いっぱいに届くところまで手をのばしてみたい気持ち」。それが何なのか、何に向かっているのか、自分でもよくわからない。 以前に「私には、全力疾走するか、ぴたっと止まるか、どちらかの選択肢しか残されていない」と書いた。だが本当は「どちらかの選択肢しか残していない」のは私自身だ。たとえ環境が「どちらかの選択肢しか残してくれない」ように思えるものであっても(本当はどうなのかよくわからないけれど)、その中で「どちらかの選択肢しか残していない」、つまり「その中間である“ゆっくり歩く”ということを選んでいない」のは、他でもない私であって、誰の責任でもない。その辺りの切り替えが下手(というか、両極端に振れてしまう)なのが、恐らくは私の良くないところなのだと思う。 焦るな、焦るなと自分に言い聞かせているが、恐らく私はものすごく焦っている。先を急いでいる。本当は、黙っていることも、じっとしていることも、悪くないはずなのに。 それに続くような続かないような話。 9月20日の日記に書いたことの続きを、今もぼんやりと考えている。たぶん、しばらく考え続けるような気がする。「しばらく」がどのくらいの間になるのかはわからない。 そして、『記憶のつくり方』(長田弘著、1998年、晶文社)(詳細)を少しずつ読んだ。一気には読めなかった。胸が、きゅ、とする感じで、時々読み進めることができなくなっていたから。 以下、9月20日の日記の続きなのだけれど、多少は本の影響を受けているかもしれない(できれば9月20日の日記を先に読んで頂いた方がよいように思う)。 たぶん、大抵の人が「誰にも秘密にしておきたいこと」「心の中の小箱に鍵をかけて、大切にそっとしまっておきたいようなこと」を抱えて生きて、秘密にしたまま、いなくなってしまうのだと思う。そういう人が何人も何人もいて、今があるように思う。 完全に残すことはできなくても、「大抵の人が“誰にも秘密にしておきたいこと”“心の中の小箱に鍵をかけて、大切にそっとしまっておきたいようなこと”を抱えて生きて、秘密にしたまま、いなくなっている(いなくなってきた)」ということを忘れずに覚えておけば、それでよいような気もする(「それでよい」という言葉がいいのかどうか、自分でも迷っているが)。「大抵の人」と書いたけれど、「みんな」ではなくて、「かけがえのないひとりひとりの人」が。 いなくなった人の周りの残された人にとっては、いなくなった人が大切に抱えていたものを、はっきりした形で掴むことはできないのかもしれず、それは、ふわふわ・ぐにゃぐにゃ・ふよふよとした感じでしか感じることはできないのかもしれない(これ以外に適切な言葉が思いつかない…)。「いなくなった人が確かに生きていたのだ」ということを、「これだ!」とはっきりとした完全な形として残すことはできないのかもしれないけれど、「ふわふわ・ぐにゃぐにゃ・ふよふよとした感じ」を、そのままで、ぽわん、と残しておくこともできるかなと思う。その「ぽわん、と残されたもの」だって、それはそれで大切なもののように思う。 今日、聴いた曲 バレエ組曲「コッペリア」より「前奏曲とマズルカ」「ワルツ」「チャルダッシュ(ハンガリー舞曲)」(ドリーブ作曲(淀彰編曲))(Copperia Ballet Suite - Prelude et Mazurka, Valse, Czardas(Danse hongroise) / L.Delibes (Arr.by Akira Yodo)) 昨日「音楽が好きかどうかわからない」と書いたが、これは素直に楽しんだ。昔に演奏したことがあって、久しぶりにその時のことや一緒に演奏した仲間のことを思い出して、笑って、泣けた。 右手にお茶を入れたコップ、左手に携帯電話と新聞記事を持って家の階段を上っていたら、途中でくしゃみをしてしまいそうになった。今、くしゃみをするとコップの中のお茶はこぼれるだろうし、荷物を置くにも手がいっぱいだし…と、しばし葛藤してしまった(結局、くしゃみを我慢した)。
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