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急に涼しくなりました。 昨日書いたことと関連するようなしないようなことだけれど、生きていた人がいなくなった時に、まだ生きている人には、「いなくなった人が確かに生きていたのだ」ということを何らかの形で残したいという強い気持ちがあるのかなと思う。それは、なぜなのか、何のためなのかよくわからないけれど、私にはそういう気持ちがある。ここのところ、それは私だけが持っている気持ちではないのかもしれないと思うようになった(確証はないが)。 しかし、そう思った人も、やがていつかはいなくなる(残したいと思って残すことができる人と、残せないままの人がいること、残したくない人もいること、また、何をどのようにどれだけ残すことができるのかという問題は、ひとまずここでは置いておく。いずれじっくり考える必要があると思うけれど)。そうすると、またそこには、何らかの形でその人が生きていたのだということを残したいと思う別の人が出てくるのだろう。そういうことが無数に繰り返されて、今があるのかもしれない。 でも人は他人のことを完全に理解することはできないだろうとも思う。自分自身の体験から、“あなたの気持ちは、少しわかるかもしれない”とか“その気持ちはよくわかるように思う”とは言えても、完全には理解できないし、むしろ完全に理解されたら怖いようにも思う。少なくとも私は、誰にも秘密にしておきたいことを自分の中に抱えている(少し照れてしまうような表現をすると「心の中の小箱に鍵をかけて、そっとしまっておきたいようなこと」)。とすると、残そうとしても、それは完全には残らないのかもしれない。とすると、何がどのように残っていくのかなぁと思う。で、そうやって積み重なってきた「今」とは、いったい何なのだろうと思う。 しかし例えば、本や映画や人の話(など、いろいろ)の中に、ふと「私が言いたかったこと(でも言えなかったこと)を、この人は代わりに言ってくれているようだ!」と叫びたくなるフレーズを見つけることもあって、いてもたってもいられなくなる時も確かにあるし。でも、その本や映画や話を生み出した人は、そんな私のことを「そんなこと言って、あなたは私のことを全然わかってないじゃないの!」と思っているかもしれない(いや、実際には、直接伝えることもあるし伝えないこともあるし、そう言われることも言われないこともあるけれど、可能性としてはそういうこともあるかな、と)。で、その逆のパターンも存在するようにも思う。 私は、自分のことを少しだけでも伝えようとすることと、また、「理解できる」とも「理解できない」とも判断せずにゆっくりと周りの人と接していくことくらいしかできないのかもしれないけれど。 1日中、何となくだるい。横になっているのが一番楽だなぁ。眠り込んでしまうわけではないけれど。いや、時々は眠り込んでしまうけれど(昼間から何をやっているんだか…)。こうやって家で仕事をしていると、座っているよりも横になっている方が楽だ(外に出た時はよくわからない。立ちっぱなしでも大丈夫なことは大丈夫)。で、横になってしまうと仕事ができないので、頑張って起きているのだが、つい横になりたくて、困る。 横になっていても、気分は晴れないこともあるのだけれど。そんなこともあるかな、と思う。 「失敗しないようにしよう」とは考えないようにしようと思う。多少は失敗してもかまわないと考えようと思う(一番大事なポイントさえ失敗しないようにきっちりと押さえておけば)。失敗しても大丈夫だとか、失敗から何か得るところがあるだろうとか、失敗した方が人間らしいのだとか、自分に言い聞かせたりもする。多少の失敗を楽しむくらいの余裕を持つことができたらいいなぁとも思う。 …のだけれど、やっぱり私は失敗するのが怖くて、びくびくしている。失敗しても大丈夫だし、その時に咄嗟にうまい対応ができなくても、それはそれでなるようになる!…と思うようにはしているのだけれど。 完璧に準備していても、失敗してしまうこともあるし、逆に中途半端にしか準備をしていなくても、意外といい感じになることもあるし。気合いは入れすぎず抜きすぎず、ということかな。 というふうにぐしゃぐしゃと考えているのは、来週から始まる新しい仕事のためだ。初めてのところや、大勢の人の前で話すことはとても苦手だ。でもそれを言い訳にしないで、克服していきたいし、そういう自分であるということを素直に認めた上で取り組んでいきたいなぁ…とか言っていても、実は内面は“うわぁぁぁ”とか“ふぎゃぁぁぁ”という感じなのだが。 昨日買って、今は少しずつ読もうとしている本。 『記憶のつくり方』(長田弘著、1998年、晶文社)(詳細) 今日、久しぶりに聴いた曲 Cocco「焼け野が原」(作詞・作曲:こっこ,編曲:根岸孝旨,弦編曲:村山達哉)
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