風紋
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| 2003年08月17日(日) |
思い出と人に出会うこと / 立ちくらみ / 呟きなど |
自分でも、うまく言葉に出来るかどうか自信のないことを思い切って書いてみる。
昨夜、なかなか寝付けなかったので、昔のことを適当にいろいろと思い出していた。ずっと以前のこと、つい最近のこと。クラスのこと、クラブのこと。楽しかったこと、嬉しかったこと、嫌だったこと、悩んだこと。思いつくままに。
その思い出の中には、たいてい自分以外の人が登場する。過去のある時間をともに過ごした人。過去のある出来事をともに経験した人。しかし、同じ時間を同じ場所(あるいは近い場所)で過ごしても、また、同じ出来事を経験していても、それが自分の中でどのように位置付いているかは、1人1人違う…と、何だかつい最近、似たようなことをここに書いたような気がするが…。
そして、それぞれの思い出が自分の中でどのようにつながっているかも、1人1人違う。私は、Aという出来事を、ある人とともに経験しているかもしれないけれど、その後のBという出来事はその人とともに経験していないかもしれない。別のある人と経験しているかもしれない。
結局、あれやこれやのたくさんの思い出を抱えて(記憶にない思い出、記憶から追い出したい思い出も含めて)、今の私がいるわけなのだろうけれど、それらの思い出がこのようにつながって存在している人は、世界中探しても、私1人しかいない。それは、私に限った話ではなくて、誰でもそうだと思う。どんな人も、その人の思い出をその人の方法で位置付けて、かけがえのない存在としてそこにいる…のだと思う(自分以外の人のことは想像するしかないけれど)。
そう考えると、人と出会うということは、ありがたいことだとしみじみ嬉しく思った。世界にただ1人しかいない「私」と、世界にただ1人しかいない「あなた」。「私」と「あなた」は、違う思い出を抱えている。しかし、それでも、一緒にお話したり、あるいはメールをやり取りしたり、笑ったり、あるいは言葉を交わさなくても一緒に時間を過ごしたりすることができるのだな、と思うと、それがとてもとてもありがたくて嬉しいことに思われてきた。だから、出会ったことを大切にしたいと思った。それと、自分以外の人のことも、自分自身のことも大切にしたいとも。
注:自分でも、この言葉でいいのかどうか迷いながら使っている言葉がいくつかある。「ともに過ごす」とか、「思い出をつなげる」という言葉など。考え続けていきたいと思う。あと、こんなことを書いたけれど、私にもどうしても苦手な人がいないわけではない。
○ そんなことを考えながら寝た…のが原因ではないと思うのだけれど、昨夜はどうも寝つきが悪く(全然眠れなかったわけではないが)、最終的には朝にあきらめて、“じっと寝転がっているのも退屈だから”という、理由になっていないような理由で起き上がった。そのせいか、昼間に何度か立ちくらみに襲われていた。座っている状態から立ち上がる時に、頭がじーんと重くなって、目の前が暗くなって、かすんでいくというのが数秒間続くということを2〜3回起こした。その状態よりももう少し軽度の似たような状態も数回起こした。別世界に引き込まれるような不思議な感覚だが、あまり味わいたいものでもない。
先月に受けた血液検査では何の異常もなかったので、貧血ではないです。ご心配をおかけしたなら、申し訳ありません。
正直なところ、現在自分自身がどの程度元気なのか、どの程度体調が悪いのか、よくわからなくなってきている。調子が悪いと思うのは気のせいか甘えで、本当はもっと頑張れるのかもしれない。一方で、“この程度の無理なら十分許容範囲だ”と思って行動していることが、意外に大きな負荷となっているのかもしれない。
空や花を見たり、風を感じたりしながら、何もせずにのんびりと過ごしたい気持ちが大半を占める中に、時々ぽつぽつと、研究を進めたいとか、人と話をしたいとか、日記を書きたいとか、音楽を聴きたいという気持ちが浮かんでくる感じがする。自分のペースが掴めれば一番いいのだろうけれど。
秋が来るのが怖い。情けないけれど。
○ 言葉にできないことや言葉にならないことが、まだまだたくさんある。時々、何もかも壊してもかまわないから、言葉にしたいと衝動的に強く思うことがある。しかし、やっぱり壊れるのは怖いのです。
もしかすると、壊さずにすむ方法もあるのかもしれません。
○ 最初はおそるおそるという感じで躊躇いながら、少しずつ堂々と鳴くセミの声。
○ 不意に、“これが私だ”と思った。少しずつ変わってはいくけれど、でもこれが私で、それは変わらないことなのだと。
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