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風紋 もくじ / この前 / この後
しなければならないことが多くあるから体調が悪いのか、体調が悪いからしなければならないことが多くあるのか、よくわからなくなってきている…と、とある人に相談すると、「前者でしょう?」と言われた。確かに、このように文章にしてみると、どう考えても後者はおかしい。ただ、後者であるという気持ちもどこかにあるように思う。 来週(今週?)は、雨が続くらしいと週刊天気予報で知って、なんだかとても気が滅入って、あせって、不安になっている。たかだか天気予報でこんなに気分が左右されているのも自分でおかしいなと思うのだけれど。雨が続くと、私はまた大学や仕事に行きたくなくなるのではないだろうか、それでも気合を入れて行くしかないんだろうな…と思うと、正直なところ、ものすごくつらくなる。先のことばかり心配しても仕方がないのだけれど。今日は今日を大切にするしかないのだけれど。 …たぶん大丈夫です。頑張ります。 今日聴いた音楽 「海−3つの交響的スケッチ(I.海の夜明けから真昼まで,II.波の戯れ,III.風と海との対話)」/ドビュッシー作曲(ウラディーミル・アシュケナージ指揮/クリーヴランド管弦楽団) 「対話」ということについて、ぼけっと考えていたのだけれど、「対話」という言葉を聞いて思い出す曲がこの曲の3楽章「風と海との対話」(それとBill Evansの「自己との対話」というアルバム)だったので、まずこの曲を聴いた。このようにタイトルがついていると、本当に風と海とが対話をしているように思われる。弦楽器と管楽器、金管楽器と木管楽器といったような各グループのかけ合いがあまりにも自然であるからか。寄せて返す波。その上を吹きぬける風。ずっと対話が続いているような。 「対話」というのは、辞書的には「双方向かい合って話をすること。また、その話」らしい(インフォシーク国語辞典より)。それでも、風と海との間に対話が成り立つのだったら…と、考えていた。 風と海とが対話するのであれば、「双方向かい合う」のは、別に、生きている人間と生きている人間でなければならないということはないように思う。風と海とでもいいのかもしれないし、人間と自然とでもいいのかもしれないし、生きている人間と死んだ人間とでもいいのかもしれない。私は、「対話」のポイントになるのは「向かい合って」ということだと思う。別に位置的に向かい合う位置になくてもよくて、…何と言うのかな。心が向かい合って(?)いればいいように思う。 「話をする」と言っても、別に具体的に言葉のやり取りを行わなくてもいいのかもしれない。意味のある話を続けなくてもいいのかもしれない。どちらかがどちらかに一方的に話をして、黙って聞いてもらうというのも、あり…なんだろうか。 ここのところ、いろいろな人と対話をした。直接会ったり、会わなかったり、電話をしたり、メールをいただいたり。いっぱい助けてもらった。支えてもらった。言葉は十分でなくても、まるごと抱えてもらったという気がした。 だから、私も彼女と対話を続ける勇気を出してみようかと、そう思った。今まで逃げてきたところはあるけれど、いつかは「向かい合う」ことをしなければならないのだろう。返事は戻ってこないけれど、それでも気まぐれにふっと戻ってくるかもしれない。 …やっぱり、あんまりうまく書けた気がしない。技術的に上手く書けた書けないでなくて、伝えたいことをきちんと伝えられるように書けたような気がしない。それは、自分の中でも考えがまとまっていないことだからかもしれないし、この場所ではあまり具体的な事実を出して話をするわけにいかないことがあるからだということもある。“何となく伝わって下さい”というのは、あるいは、とても甘い考えなのだと思う。それでも、意味のつながった整然とした言葉ででなくても、対話を続けたくて…対話を続けたいという意志があることを示したくて、日記を書いているようなところがある。 読んで下さっているだけでも、随分助けられています。日記に依存してはならない、いつ日記をやめなければならない事態になっても大丈夫なようにある程度の覚悟は決めておかないといけないと思いながらも、今は、随分この場所に、そして読んで下さっている方に寄りかかってしまっているような気がします。 もう少ししっかりします。 「そよ風」に、少しだけ写真を追加した。また空の写真ばかりですが。空と花くらいしか、ここには掲載できないですが。
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