風紋

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2003年03月24日(月) 沈丁花と住所 / さくらがさいた / 後悔しない

沈丁花の、心地よく懐かしい匂い。

前の家の庭には沈丁花があった。子どもの頃は、散り落ちた1つ1つの小さい花をままごと遊びの材料(?)に使っていた。小さくて可愛らしくて、とても使いやすかった。木に咲いているのをちぎったりはしなかった…ということにしておく。

今の家の住所を書くたびに、番地がこれで正しいのか何度見ても自信がないような気がするし、気を抜いていると右腕は勝手に前の家の住所を書こうとする。そして新しい住所の隣に並んだ自分の名前は自分を現すものでないように思われる。ただ、もう前の家に戻ることがない以上は、前の家の住所を書くことも気紛れ以外ではもう二度とないのだから。


諸事情で研究室に居ることができなかったので、隣の研究室にお邪魔した。隣の研究室には大きな窓があって、窓のすぐ外に桜の木がある。つぼみがどんな感じなのか見てみようと窓に近づいて見てみると、もう相当色づいていて、隅の方のもの(たぶん部分的に日当たりの良い場所)は花を咲かせていた。桜が咲いてるよー1個だけだけれどーと後輩を呼んで、2人で眺めていた。他のものも、恐らくもう少ししたら咲き始めると思う。嬉しいなぁ嬉しいなぁ。


三連休の余波か、今日は例えるなら助走だけで終わった感じ。助走にそんなに時間をかけるなという感じなのだけれど。


以下引用。
「昔、水沢さんが言ったわ。反省しなければ、人間って進歩しないだろうって。でも反省と後悔って違うのよね……。わたし、ずっと、こういう風に思ってきたわ。“我、ことにおいて後悔せず”っていうのは……何かをやる時にね、本当に極限まで−−自分の思考範囲極限までそれについて考えてみて−−で、はじめて、何かする訳よ。そうしたら……たとえ、結果が凶と出たって後悔なんてできないわよね。後悔したら、極限まで考えた自分−−自分そのものを否定することになっちゃうもの」
(新井素子「通りすがりのレイディ」1982年、集英社。pp.113〜114)

あまりうまく書けないけれど。こう言える時(場合、場面)と必ずしもそう言いきれない時(場合、場面)とがあるのだと思うけれど。これと似たようなことを考えたことが私にはある。というかこのセリフが妙に腑に落ちたというか。自分のしたことを考えるとどうしようもない苦みを感じて、しなきゃよかったのかもしれないと思ったり、でもそれをした時には精一杯極限まで考えて、ああするしかしようがないと思ったんだし、結局いま現在も本当のところはそう思っているんだということを思い出すと、立ち往生するしかなくて、自分自身を消してしまいたくなったり。しかしそうしたところで何にもならないよとも思い。何だかそういうことの繰り返しだけれど。

多分、誰かに「後悔してるの?」と訊かれたら「してないよっ」と答えると思うのだけれど、見えないところで言葉にならないものを涙と一緒に噛み潰しているような気がして、でもそういうところも引っくるめて私の生き方なのだと。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)