風紋

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2003年02月05日(水) 自分のためのメモ / 春が来る / ほどけた靴の紐 / 信号機が変わった / ティーポット

自分のためのメモ

(1)読みたい本
鷲田清一(1999) 『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 TBSブリタニカ(こちら
浅野智彦(2001) 『自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ』 勁草書房(こちら

(2)その他
ファイルが飛んできた。整理すること。


梅の花が、ぽつぽつと咲いているのを見た。

お花屋さんには、チューリップの花が並んでいた。桃の花(枝で)も売られていた。桜の花(枝で)も売られていた。

和菓子屋さんの店先には、雛祭りのためのお菓子がならんでいた。

そういえば、昨日は立春だった。

まだまだこんなに寒いけれど、少しずつ少しずつ春が来ているのだと思った。そのことを何となく不安に感じないでもない。なんだか、いつもいつも私を置いてけぼりにして季節は移ってしまうのね、というような。感傷的にすぎるだろうか。ただ、私も何かを置いてけぼりにしたまま進んできているのかもしれないなと思った。思っただけ。

関係ないけれど、春が近づくとぽつぽつと花粉症の症状が出るのは、きつい(私はそんなにきつくは出ないのだけれど)。


前を歩いていた女の子の靴の紐がほどけているのを見つけた。これ、踏んづけちゃったら転んじゃうよ…と思って声をかけたかったのだけれど、人が多かったうえに、その女の子との距離がかなりあり、あっという間に見失ってしまって声をかけることができなかった。

自分で自分の靴の紐がほどけていることにはなかなか気がつかない(しょんぼりしている時以外はあんまり足もとを見て歩かないし)。でも、意外と自分よりも他人の方が気がついてくれたりする。でも自分ではやっぱり気がつかなくて。

普段の生活の中でも、同じようなことがあるのかもしれないと思った。自分では絶対に見えない自分のある一面が、意外と他人には見えていたりするのかもしれない。この日記だって、そうなのかもしれない。

もしも私の靴の紐がほどけていて、踏んづけて転びそうになっていたら、教えて下さい。それは少し恥ずかしいことではあるのだけれど。


いつも通る道の信号機が、新しいものにかわっていた。場所も少し変わって。前よりも少しスマートな形のものになっていた。

前の信号機は、私にとって馴染みの深いもので、この場所に転居してくる前は毎日のように眺めていた信号機だった。特に芸術的なデザインであるわけでもなく、どこにでもあるような信号機だったのだけれど、見慣れていたものと違うものがあるというのは、不思議で、そして少し寂しい気分だった。こうして大切なものが次々となくなっていってしまうのね…と思ってしまうのは、とても極端に悲観的であることはわかってはいるのだけれど。


まともなティーポットを持っていないという話を、この日記でも度々書いていたのだけれど、今日、家族に、ティーポット…というか、耐熱ガラスの急須を買って来てもらった。少し値段が安くなっていたらしい。ガラスってどうなのかな。冷めやすいから気を付けてという話を聞いたことがあるような気がするけれど、中身が見えるのはちょっと素敵。

早速使ってみたかったけれど、今日は宿題(?)を抱えていて、強引に眠気を飛ばしたいので、コーヒー(強引に飛ばそうとしなくても、最近この時間になっても寝付けないことが多いので別にかまわないのだが…)。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)