Comes Tomorrow
ナウシカ



 一つの行動、二つの考え方

最近特に思うのは何かをする時、同じことをするにしても考え方一つで全く違う結果と言うか、感じ方が違うよなぁ〜ってことです。
思考パターンによっては楽にも苦にもなるなぁ〜と。

仕事にしろ何にしろ、やり始める時は(さぁ〜頑張らなくっちゃ)と張り切るけど、それが長続きしなかったり、途中でしんどくなったりして(なんで自分はいつもこうなんだろう?)と嘆いてしまったりする。

そして思う…
(どうしたら自分は元気でいられるか?)
(どうしたら頑張り続けることができるのか?)
(どうしたら自分の弱さに負けず、強い自分でいられるか?)
でも考え方を変えたらどうなるだろう?
(どうしたら元気がなくても頑張れるだろう?)
(どうしたら楽に頑張れるだろう?)
(どうしたら弱い自分を肯定し許すことができるだろう?)

考え方は変わってもやることは同じ…
でも心の疲労度は全然違う気がする。

私もそうだったけど、鬱に陥りやすい人はどうも(元気出さなくちゃ、頑張らなくちゃ)って思い過ぎのような気がする。
何でもバイタリティーに溢れ、元気いっぱい事を運ばなくてはいけない、頑張らなくちゃいけない、自分の持てる能力を全部出し切らなくちゃいけない、それでやっと人並みに仕事がこなせる…と。

でも考えたら、そんなに頑張る必要があるのか?
そんなにいつもいつも元気でいる必要があるのか?
いつも強くいなきゃいけない?

強迫観念なんだと思う。
いつも元気に明るく強くしてないと自分が崩れちゃうような、何もしないと弱い自分が顔を出し落ち込んでしまうと…
目に見えない何かにしがみつくように必死に保とうとしてしまう行動パターン。

でも人間そこまでしなくても本当は何とかやっていけるんだよね。
いつも元気でいる必要もないし、そんなに必死に頑張らなくても何とかなる。
脳自体を考えてみてもそうだ。
100%脳を使い切ってる人はいない。
何%か忘れたけど、使ってない細胞の方が多いんだよね。
それだけ予備を持たせてるってことだよね。
余裕を持って考え行動できるように人間は創られてる。
それを心の作用でもって、自分の能力を狭めているんだよね。

そうすることでかえって落ち込みをひどくし、立ち直れないほど自分を責め、別にそこまで頑張らなくても普通にできてたことができなくなる。
そして元気じゃないときはダメだ、頑張れないときはダメだ…と自分で自分のことを追い込みダメ人間にしてしまう。
つまり考え方で自分の能力を狭めてしまう。
落ち込む原因を作っているのは自分、何もできなくさせているのは自分…
本当はできるのに、頑張らなくても普通にできるのに、頑張れなければダメだと自分で自分の行動を止めてる。

そしてできない自分をまた責めて嘆き落ち込み、頑張れないから元気が出ないからできないと思って嘆き悲しみ、できないことにまた嘆き落ち込み…悪循環の繰り返し。

元気が出なくてもできることはある。
頑張れなくてもできることもある。
楽にやれることもある。
それは甘えとかサボってる訳でもない。
ただの考え方に過ぎない。

やるべきことは同じ。
ただ心をどこに置くかなんだよね。
元気が出なくても頑張れなくても、取り合えずできたら落ち込みは少なくなる。
できたことで自信がつく。
それが喜びになる。
それで元気になる、頑張れるようになる。
そして落ち込まなくなる。
嬉しいから元気になる。
悪循環から解放される

(どうしたら頑張れるか?)ではなく
(いかに気楽にやれるか?)を考える方がいい。
それは自分に甘い訳ではない。
やるための方法論に過ぎないから、自分を責める必要もない。
ただできたことを褒めて上げよう。
それでもできないことはある。
でもできる時もある。
一喜一憂することなく自分を見守ってあげよう。
まだまだ人間の能力は余裕があるんだから…

どうせ同じことやるなら気楽に楽しみながらできたらいいね。

2002年05月29日(水)



 この感覚…追い詰められていく!?

何だかここんとこ、私の周りでは不思議なことが次々に起こる…って言うか、不思議な縁を感じる…と共に、どんどん追い詰められていく。
この感覚は…以前にも幾度かあった。

自分自身の課題…乗り越えなくてはならない課題…でもそれは避けて通ろうと思えば避けることができる。
だから乗り越えたに越したことはないけど、苦しいからなるだけ避けてやり過ごしたい。
問題はあっても、それなりにやっていけるのではないか…徐々に変わればいいんじゃないか…多少の妥協があってもいいのではないか…何とかなるよね…という具合に…

でも外堀を埋めるように、それはジワジワやってくる。
その課題を潜在的には何とかしたい、乗り越えられたらなぁ〜と漠然と思っていて…
でもどうしても自分の中の何かが邪魔をして、逃げの姿勢になったり、ごまかしたり…
乗り越えたい…でも苦しい…今も苦しいけど、乗り越える方がもっと苦しい…
ああ〜どうしよう…ああ〜どうしよう…と。

でも私はこれまで大きな転機転機で、もうどうしようもない断崖絶壁に幾度か立たされて(もう〜やだぁ〜って言ってるのにぃ〜)自分の意思に反し、どうしても飛び込まなくてはいけない、いられない状況に立たされる。
その時はものすごく苦しい。
こうした方がいいという道は見えていても、どうしても快くそこに飛び込んでいけなかったりする。
そんな時にいろんな形で、私の背中を押し、手を引っ張り、時には突き落とされてしまう力がある。
それは人だったり、環境だったり…

これまでにない苦しみを味わい、そしてそこを抜けると…眼前には思ってもみない世界が広がっている。
自分の想像を越えた世界…
大きく変革した自分に出会うこともある。
環境がガラッと変わる場合もある。
見るもの聞くもの、すべてが変わって見える。
そして気付く…ああ〜私の望んでいたことはこれだ。
これだったんだ!
漠然とではあったけど、こうなりたいと望んでいたんだ…ずっと!

なんて素晴らしいんだ!
すごく苦しかったはずなのに、辛かったはずなのに、穴があったら入りたいぐらい嫌なことだったのに…どうして!?
乗り越えられた自分…素直な自分…すべてに感謝できる自分…
…が…そうなるまでには、この世の終わりみたいな苦しみが待っていたりする。
辛くて辛くてこの上ない。

一番辛いとき苦しいときは、大きく変われるチャンスの時…
その時にはわからないけど、後になって意味のあったことだと気付く。
産みの苦しみと言うか、新しい自分を生み出すのはかなりの痛みを伴う。
勇気…そう勇気が必要。
心と体が引き裂かれる葛藤と闘わなくてはいけない。
変わろうとする瞬間も、ものすごい吸引力で元の自分…基底部にいる自分に引き戻されそうになる。
それでも、それよりも強い力で何かが私を突き動かす。
その時が近づいてるような気がする。

怖い…その結果を思うとき、それは喜ばしいことだけど…でもやっぱり…怖い…
不安と期待…絶望と歓喜…隣り合わせのそれは一瞬にして転じる合わせ鏡のよう…

2002年05月19日(日)



 感情を感じることの恐怖

こないだのカウンセリングは、まさにこれがテーマでした。
GW前から、何だか悶々としてスッキリせず、原因はそれなりにあったけど、でも自分の感情がもうひとつ見えてこなくて、胸の辺りでくすぶった得体の知れないものが動めいていたという感じ。
時間が経つにつれ、何となく悲しいのかな?辛いのかな?寂しいのかな?というのは解ってきたけど、それでも湧き上がってこない感情…そこには確かにあるのに…

でもそれはあるキッカケで突如溢れ出しました!
『鯨の中のジョナ』という映画を観た時、感動とはまた少し違う…深いところから激しく突き上げてくるものがありました。
そして、このGW中、その映画のワンシーンを思い出すだけでワンワン泣いたのでした。
映画自体は、ナチスドイツのユダヤ人強制収容所の話だったけど、家族の愛を描いた映画だったんで、ほんとに溢れるほど込み上げてきました。

主人公は3〜4歳の男の子(これがまた可愛いんだ)
彼は物心つくかつかないかの頃、強制収容所に両親と共に連行される。
そして、父は別の棟に、男の子は母と同じ棟に…
男の子は、収容所という劣悪な環境の中で成長していく。

収容所の中でお父さんが病気で死に、ソ連軍の解放によって助け出された直後に、お母さんも精神を病んでしまって亡くなってしまう。
まだ小さい男の子が、その悲しみの絶望から少しずつ立ち直っていく…何とも健気で泣けてきた。

お母さんが亡くなる少し前に、彼がお芋を持って見舞うんだけど、心に大きな痛手を負ったお母さんは被害妄想で、自分は毒殺されると思って、食べないし、薬も飲まない。
そして、周りにいる人達を激しく罵る…
「皆死んでしまえばいいのよ〜!」
…って大暴れして…
それで鎮静剤を打たれると一瞬正気に戻って、男の子に
「いつも空を見上げているのよ。決して人を憎んではいけないよ」
…と言う。
それはお母さんが収容所の中でも、いつも口癖のように男の子に言って聞かせていた言葉。

何だかものすごく悲しかった…せっかくやっと自由の身になれたのに…
家族3人でまた一緒に暮らせることを夢見ていたのに、お父さんは亡くなり、お母さんも希望を失ってしまって、解放されても心が癒されることがなくて…

男の子は子供らしく自由になれたことを喜んでいたけど、お母さんを亡くし…しかもそれを後で知って、悲しみでご飯も食べなくなってしまって…
でも養父母に自転車をプレゼントされて、最初は見向きもしないんだけど、両親と楽しく過ごしていた時のことを思い出し、いないはずのお父さんに甘えて、また希望を取り戻し立ち直っていく。

こんな絶望の淵にあって…持って行きたくても、収容所に持って行けなかった三輪車…今はコマはついていないけど真新しい自転車に、子供の頃からのお気に入りだった人形をハンドルの中央につけて…
そしてお父さんとお母さんの幻影の中で走り回る…ああ〜また泣けてきた。

「いつも空を見上げているのよ。決して人を憎んではいけないよ」
男の子はこのお母さんの言葉を胸に生きていくんだろうなぁ〜
私の胸にもズシンとくる言葉でした。

話は随分それちゃったけど、そうそう…感情を感じることの恐怖。
私は自分の感情を知るのが怖い…って言うか、自分の感情がわからない。
特に悲しみの感情がよくわからずに持て余してしまう。
突き詰めると、悲しみだけではなく、怒りも、楽しさも、嬉しさも、悔しさも、辛さも、喜びも、何もかも…漠然とそこにあるだけで、胸に迫ってくるものはない。
そう…淡々と生きてきた…ただ淡々と…
何も感じないフリ、何でもないよというフリ、全然平気というフリ…
どんな感情も脇に脇に追いやり、競走馬のように脇を見ないようにして、前だけ向いて走ってきた。

「子供の頃はそうでもしないと生きて来れなかったから、そうしていたのよ。
でもこれからは、ちゃんと自分の感情を見るようにしないと…
感情を出す出さない以前に、自分の感情を後ろに追いやらないで!頭で考えないで!
得体の知れない感情は、いつか自分の手の届かないところで爆発してしまってコントロールが利かなくなるよ」
…とカウンセラーは言う。

「これまで着ていた服(感情)はすごく体に馴染んでいて、着心地はいいかもしれない。
その馴染んだ服をそう簡単には脱げないかもしれない。
でもそれを脱ぐ勇気も必要。
新しい服に着替える…それはとても苦しいし辛いよ。
嫌な自分も見なきゃいけない、感じたくない感情も感じなければいけない。
だけど、それを見ないで通り過ぎようとしても、ないことにしてしまっても、体のどこかに、心のどこかにはあるんだから…
自分ことがますますわからなくなるよ。
それはとても危険なこと…」

はぁ〜 ため息をついてしまった。
どうしたらいいのか?
勇気…う〜ん、そうか…
う〜ん…う〜ん…

自分はだいぶ回復してきたと思っていたけど、実はやっとスタートラインに着いたに過ぎないんだ。
これからなんだ…本当の闘いは…辛い作業が待っているな。
一気に押し寄せる感情の波を思うと怖いな…

2002年05月11日(土)
初日 最新 目次 MAIL


My追加