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歳末
2005年12月31日(土)

今年も今日で終わり。
…という感じが全くしないのは、
昨日の夜まで仕事をしていたせいか。
今日になっても仕事のことが頭を抜けないせいか。

体調もあまりよくない、不思議な寒気と筋肉痛。
今日は一日ゆっくり過ごそう…というか、
もうなんか体の重心がぐらぐらして、ちゃんと動けない。
それでも近場で銀行や買い物など用事を済ませて、
ああまだなんとか生きている、という感覚を得る。

心身ともにぐったりといった感じで、
しかし私はまだまだ強くならなくてはいけない。
これしきのことで動じてはならない。
そんな使命感にも似た感覚が骨の奥から響いている。

今年理解した価値基準。
“背骨の美しさ”がその人のカッコよさを決めるのだ。
といっても物理的には猫背でもなんでもかまわないんだが、
ようするに“目指す方向”がピシッと定まっていて、
それに向かってぶれない行動・決断をする人の姿には
一種の美しさがあると思うのだ。
更にそれが“どのような”タイプの美しさか、
それが自分にも好ましくて熱のあるものであれば、
カッコいい人だなと私は感じる。
そういう意味でカッコいい人たちと、知り合えたこと。
それが今年の最高の収穫。

私も姿勢よく生きていきたい。
「地面を這いつくばれよ」とか
「頭を下げて生きていけよ」とか(※抽象的な意味で)
さも正しい顔で、姿勢を曲げさせるようなことを
言う人がたくさんいるけど。
そういう私にとって不要な言葉を上手に無視しながらも、
かどがたたないように適当に仲良くやりすごさなきゃいけない。
そう、だって俺はサラリーマンだから!
決して、個人事業主ではないから。
だって個人で事業をやるって、
自分一人でいろんなことがわからなくてはいけないから、
今の私のような能力の偏り具合では難しいと思うのだ。
それができない限りは、色々苦労しながらも、
毎日同じようなメンバーと助け合って仕事をしていくしかない。
そしてそれは、場合によっては、そうそう悪いこととも限らない。

人間の中でしか暮らせないくせに
人間とうまくやれない自分を感じて悔しくなるたびに、
ああもう無理じゃねえかなーと思うたびに、
十年以上前のある年の、今頃の気持ちをいつも思い出す。
ひとつの転生が訪れるのにも近いぐらい、
それまでの自分を捨てて新しい場所に飛び込むことを決めた時期。
世間的にみればとりたてて騒がれることでもない、
ささいな小さなことだったけど、
私の中ではさなぎが蝉に変わるぐらいのドロドロと陽動が起きていた。
あの時のような色濃い悲観はいまは失せてくれたし、
あの時のようなジャンプ台の上に立つ火事場のバカ度胸は、
いまも心の奥で出番を待ちながらくすぶっている。

本当にどうしてもダメ!という日がもしもまた訪れたなら、
またああして生まれ変われることを私は知っている。
年齢とともに身軽じゃなくなってくると一般的には言うけれど、
それでもあの殻を破って飛び出す時の全身を包む風、
それを心地よいと感じることはできる気がする。

2005年に出会ったすべての人へ、感謝の気持ちでいっぱいだ。
私を励ましてくれる人、鍛えてくれる人、
現在進行形で人間関係が続いていくであろう人たち。
甘かろうが苦かろうが辛かろうが、
来年もひとまずつながりは続くのだろう。
そして2004年までに出会った、
心の中にいつもいる大勢の人たち。
私を創ってくれた人たち。
その人たちのことが大好きだから、
私はどんなときでも、自分をどうにか好きでいられるのだ。

なんにせよ、もっともっと強くなりたい。
そしてここの日記にシビアな文章が増えたことに気付いた、
そんな2005年・年末。


熱とは、伝わるもの。
2005年12月28日(水)

忘年会に呼ばれて行った。
忘年会に呼ばれるのは、今年でたぶん(“たぶん”というのは、
それが忘年会なのか単なる飲み会なのか打ち上げなのか、
はたまた送別会なのか歓迎会なのかわからない場合もあるからだ)、
6回目ぐらいだ。
その6回のなかで、いちばん落ち着けたかも、しれない。
人の熱が人々に伝染して、いい感じにホットな空間ができている。
そこには押し付けがましさがない。

いい先輩から、いい言葉をたくさんもらった一年間。
私はこれからいろんなことをあきらめたり、
打ちのめされて失望したり、プライドを引き裂かれたり、
とにかくいろいろあるだろうけど、
辛い局面でそんな“いい言葉”のひとつひとつを、
うまく思い出して、考えを転換できたらいいなあ。
「身に余る恩恵」というのは、こういう感じがする。
めったに食べられないキャビアを、
もっとちゃんと味わっておけばよかったよ、というタイプの後悔。

自分はあまりにも能天気に生きているような気もするし、
あまりにも心配しすぎなような気もする。

周りについても、よくわからない。
同じか・違うかどうかが判るだけで、
何が上で何が下かが全く判らない。
価値基準がミキサーにかけられて、
混ざらない水と油の粒のように
全てがゆらゆら、ゆれている。
この中で要領よく生きろなんて言われても、私には無理。
どうしたら自分にとって利益があるかとか、
常に計算して態度を使い分けるなんてことは無理。
そういうふうにはできていない、
そういうことができなかったせいで、体調を崩しさえしたくらい。
できることはいつも同じだ。
ただなんとなく、良いように感じるほうを向いて泳いでいくだけ。


体調がヘロヘロ!
2005年12月27日(火)

貧血っぽくなってしばらく休養。
こんなことで年末は大丈夫かなあ。
…この年末の休みはフツーに“暦どおり”。
年明けは平均的に正月休みがとれるらしい。

なんだかだいって、比較的普通に休みが取れている。
いろんな会社に勤めながらがんばっている友人がいるが、
今はその多くよりは、休暇を取る余裕に恵まれていると思う。
だが、なんなんだろうこの体力不足!?
年齢以上に押し寄せる老獪さと、だるさは?
やっぱりあれか。
小さい頃、自分が運動に向いていないことに気付いてから、
「体なんてきたえなくたって生きていけるもん」と思って
それ以降はさっぱり動こうとしなかったツケなのか。

“走るのがイヤなのに無理矢理走らされた”
といったタイプの心の傷は、実は私にはあんまりない。
どちらかといえば
“走るのがイヤなので走らなかった。十年後、病に伏した”
といったタイプのリアルな痛手を、ちょっとだけかじっている。
人間はこうやって、運動の大切さに気付くのである。
ちょっと遅いけどもね。世界じゃこれを泥縄と呼ぶんだぜ。

雑誌を買ったのに読み終わらないまま次号が発売されてしまう。
薦められた本もDVDもゲームも、楽しいはずのものなのに
いつからかたまり始めて消化できない宿題のように見えてきてしまう。

自分というコンピュータがフリーズしかかっていて、
それを治すだけで今は精一杯、
ああもっとエネルギーがあればなと思ってしまうこの悲しさ。
今の日常は十分に楽しく運よく幸せな状態なはずなのに、
まだなにか足りないと感じて、
あれが足りないこれが足りないと、ないものねだりを続ける悲しさ。
私のワガママはなんて果てしないんだろう、と思う。
わずか数年前のことを思い出せば、今の状況なんて
あの頃望んでいた夢のひとつに届きそうなくらい、
限りなく近いのかもしれないのに。
かつて夢見たことを本当にしてしまう人は、その見落としがちな瞬間、
“あ、私はいま夢のスレスレのところにいるな”ということがわかる人、
気付いてちゃんと手を伸ばす人なのかもしれない。


限界まで頑張って食事をしている夜もある
2005年12月21日(水)

三日連続、イレギュラーに帰りが遅い。
飲み会やら見学やら、色々と重なった今週。
あと一日で休日だが、その休日は休日なりに予定があって忙しい。

なんだかパワーが足りないのか、おなかがやけにすく。
先月、二週間ばかり絶食していたせいかもしれぬ。
というか、絶対にそれは栄養不足だ。
このままでは冬を越せないんではないかと
不安にかられたため、豆乳を毎日飲んでいる。
「大豆のススメ」も飲んでいる。
そのうち、「ぐんぐんグルト」も飲もうかと思う。

牡蠣を食べ、寿司を食べ、鶏肉を食べ、豚肉を食べた。
どれもほんの数年前まで食べられなかったものたち。

中でも牡蠣なんてすごい、本当に生まれて初めて食べたのだ。
それはやっぱりグロテスクな外見で、予想通り磯の味がした。
あえて正直に、婉曲表現抜きで言わせてもらうと、
どうして日本人の多くがこんなものを好むのか、
私にはよくわからない。
ともかく好き嫌いとはそういうものだ。

ついでに言うと、牡蠣を食べようとしたその場では
同席していた先輩がひとこと
「っていうか、俺こないだ牡蠣食べて当たったばっかなんだよね」
と明るく言い放ったりしていた。
もともと苦手な食物であるうえに、
そんな微妙な発言まで飛び出していたのだ。
なのに牡蠣を食べた自分は、本当に、本当にエライ。
他の面ではいろいろ、はた迷惑だったり体調が悪かったりして
さっぱりろくな人間じゃないなと自分でも思う私だが、
今月今夜のこの月夜に、そんな状況下で
人並みに牡蠣を食べたことだけは手放しでエライと思う。
はじめて(ではない)自分で自分をほめたいと思います。

でも、「人並みに牡蠣を食べること」。
世界じゃそれを食事と呼ぶんだぜ。


まっしょい!
2005年12月16日(金)

仕事中に受けた、取引先の方からの電話について。
「すみません、A様いらっしゃいますか」
「あいにくAは席を外しております」
「そうですか…では、ご伝言お願いします。
 “ただ今、そちらに向かっております”ということで。」
「はい、承りました。」

こんなやりとりがあって、Aさん宛に伝言のメモを残そうとした時に、
ついつい「いま、会いにゆきます」と書いてしまいたいという
衝動にかられた。どうにか誘惑に打ち勝ったけども。
そんな切ないニュアンスでメモが残ってた日にゃ、
取引先の方に思わず駆け寄って、抱きしめあっちゃうよね。
もちろんBGMはORANGE RANGE「花」で。
あ、沖縄民謡の方の「花」じゃなくて(※わりと間違えづらい、多分)。

ちなみに、別のドラマのタイトルと混同したらしい私は
「いま会いにいきまっしょい」とか口走っていたことがある。
2作品が奇跡の融合を遂げちゃった。
そういえばどちらも、きちんと観ていないなあ。

今日、「趣味とかないの?」ときかれて
うっかり「ないですねぇ」とか言ってしまった。
趣味、ないねぇ。今。
歌もピアノも、やめてから十年近いしなあ。
絵も最近はあまり描かなくなってしまったし、
これを言うと「どんな絵描くの?」「見せて」と言われるので
なにかと厄介である。ゆえに、あまり大声で言わない。
ということは仕事が趣味なのだろうか?
でも一見趣味みたいな仕事をしている人ほど、
びっくりするほどたくさんの趣味を他に持っていたりする。
どこにそんなエネルギーがあるんだろう。
私もなにか始めてみたらいいのかなあー。

スポーツの話題に全く対応できていないので、
いっそスポーツとか?いやいやいやいや。
せめてスポーツ観戦とか?うーん、どうだろう。
人がワイワイ動いてるのを観るのはあんまり得意じゃない。
趣味が「苦手克服のための勉強」になってしまうのもどうかと思うし。

ワイワイしないといえば、趣味の王道「切手集め」もいいよね。
逆にいま、あんまりいないような。
もしくは、多いけどあまりフィーチャーされないだけなのか。
モノに関心の薄い自分としては、それも…うーん。

静かでなおかつ収集以外の趣味。
囲碁か。
将棋か。
あるいは、チェスか。
およびその観戦か(あえて観る専門?)。
チェスの「チェックメイト」って、なんかの友達みたい。
「ルームメイト」っぽいようなひびきだし。
…我ながら浅い印象だなあ〜。


12/12…皮膚(ヒフ)の日か?
2005年12月12日(月)

どーだ、イラスト描いたぞ!えっへん(と、急にえばってみる)。
えっ、変。(ダジャレ?)

ただなんとなくヒマだから参加した集まりが
実はクリスマス会だった。そんな季節。
「あれっ、忘年会じゃなかったっけ?」
「いや、クリスマスじゃなかったかなあ」

年は忘れても、みんなのことは忘れないよ…
そういいながら汽車が走り出すんじゃなかったっけ。
何の別れのシーンなんだ。

しかし感動的な別れのシーンといえば、汽車だよね。
電車っていうより、汽車。

どこか古く懐かしい感じが欲しい。
懐かしいといっても、都電荒川線じゃないよね。
東急世田谷線でもない。
走ったら先回りできそうなのんびり路線じゃダメだ。
でも、最初は外の人たちが走って流れていく窓を追いかけて、
乗っているほうも窓から顔を乗り出して
「忘れないよ!」って叫べる程度に、初速はおだやかであってほしい。
新幹線だと、窓から叫べないし加速が早すぎる。
ただし、別れを惜しんでいる間に扉が閉まって
「ついてきちゃった」パターンは新幹線にかぎる。
「乗り遅れちゃった」パターンは、「男はつらいよ」に時々ある。

今日はやたら寒かったらしいが、
頭と歯が痛かったのでそれどころではなかった。
寒さをこうやって乗り切ることもできるのだ。
あんまり楽じゃないけどね。


手帳!カレンダー!などを買う季節!!
2005年12月09日(金)

そうか、十二月か。
なのにもかかわらず、また表紙のイラストを用意し忘れた。

急に仕事が変化したり(※転職したとかのスケールではなく、
仕事内容が急変してバタバタしていたということ。
現状は、同じ会社にいたって普通の顔をして通っている)、
インフルエンザの予防接種を受けたり(痛いんじゃないかなと
心配したが、さほど痛くなかった。ただ、後々なんかいたがゆかった)。
そのくらい小さいことばかりだけど、
いろいろあったからなぁ、ここのところ。

弱弱しい感じで、地味地味しい感じで、
でもストローで底付近から息を吹き込まれて
ぼこぼこと泡立つロッテシェーキのように、ひそかに、
面白かったり反省したり、小さな事件に頭悩ませながら生きている。
そして時々、乾ききった老木の切り株のような心地がする一方で、
うん、自分、まだ若いな、って思ったりする。
切り株の付け根から小さい芽が生えてきて、
それもまた自分だって思えるような、先の長い気持ちになったりするのだ。

周りの人にしたってそうだ。
私はキャリアがないわりに生意気だということもあり、
ひとまわり以上年上の人と結構気さくに話したりしているが、
みんなそれぞれ、いい評判やわるい評判を飛ばしあいながら、
プチプチと、それでも若々しく生きているようだ。
若々しいというか、「俺らはもっとやれる!」「次はどうかな?」と
周りをうかがっている空気を感じさせる人がいる。
安定性はないし無駄もあるけど、そういう人たちのことが私は好きだ。
ただ私はきっと、そのさらに裏側でうごめく色々なことに、
気付いていないから、こんな単純な感想になるのかもしれないけど。

なんにせよ、
“はしゃぎどき”のツボをおさえながら正しくはしゃぐ大人や、
“はみだしどき”のきっかけを待って正しくはみだす大人、
そういうふうにノリの波をつかむのがウマイ人っているもんだなあ。
そういうスキルも、あるといいなあ。
ちゃんと社会生活をしてるんだけど、しょうもない大バカでもある人。
両方を目指すのはズルイと思っていたけど、なんか憧れもするのだ。

よしよし、順調に若返っているぞー。
このペースでいくと、60代ぐらいで生まれ変わるかもしれない。