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“Butbut=駄菓子菓子”という定理を証明せよ
2005年06月27日(月)

ラーメンっておそろしいよね。
汁を上手に飛ばさずに食べるのが、果てなく高いハードルで。
……また性懲りもなく、ベーシックなことでてこずっております。
私は先に応用やっちゃうからね。
生きるための、基本がわかんないんだ。
「ラーメンの上手な食べ方」が生きる基本かはともかくね。

新しい仕事にやっとなじんだと思ったら、次のフィールドが待っている。
最近、覚えることがひっきりなしである。
その先にも確かな人の輪があって、私にとっては新しくても
その中では当たり前の“常識”が渦巻いている。
ルールとか手順とか、すでにあるものを壊さずに、
かといってそれに100%従わなくてはというわけでもなく、
それこそ自分なりに分け入っていく感じ。
そこが研究と一番違うところかもしれない。
研究の場合、先行研究のない分野だったりするから、
「すでにあるもの」なんてまだまだ大したものじゃなくて、
結構無茶を言っていても
「これからは発展すればそのくらい、常識になっちゃうんですよ」と
誰にもNoと言わせない未来の力で押し切れた部分がある。

最近ここの日記が、面白くない!と自分で思う。
人がどう思ってもかまわないが、
自分で面白くないと思うっていう状況が一番いけないし危険だ。
最近あんまりくだらないことを考えずに、
仕事で精一杯忙しいということがあるんだろう。
これでも(そう、これでも)新入社員なんだからそりゃそうだ。
そういえば、勉学で一生懸命悩んでいた3〜4年前の日記も、
近年ほどくだけていないし笑えないんだな(その後は
さほど一生懸命ではなかったらしい)。

だがしかし、ここで負けてはいけない。
くだらないことを考える力こそが、私のエネル源じゃなかったかと。
問い直すわけだ、崖の上から暁の太陽を見つめながら。
手と手をとって。(※一人で。)
合言葉は「俺 be ambitious!」…うーん、暑苦しい。
ちなみに「だがしかし」を「駄菓子菓子」って書く人がたまにいる。
「だが」と「しかし」、どちらもbut。
∴(=ゆえに)英訳するとButbutなわけですな。
…うーん、クドい。


丸の内コレクション
2005年06月24日(金)

淡々と・そしてバタバタと一日が終わり、
変な雰囲気の飲み会に軽く参加した。
生年月日がまったく同じ女性に出会う!
誕生日が、ってだけじゃなくて、年も同じ。
彼女のほうが十数時間だけ、お姉さんだった。
こんなこと初めてで、びっくりしたあー。

知り合いから本をたくさん薦められたけど、
さてどれから読み始めようかーなんて
ある意味贅沢な悩みをめぐらせながら帰宅。
今年は本に投資しよう、と決めた。

仕事そのものはちっとも嫌じゃないんだが、
今はまだ、仕事場にいるのがすっごく疲れる。
気を使う他人の中にいる、という感じがしている。
その中で、わかってもらおうという努力もしていない自分が歯がゆい。
それもあって肩がこる。もうちょっと慣れれば変わるだろうけど。

地下鉄の中で、知らないサラリーマン同士の愚痴を聞きながら
ふうっと吐息し、中高年っぽい疲れ方でたそがれる。
たそがれというよりもすでに時間帯は深夜。
金曜日の夜って本当に街がうるさいんだなー。
ということが、東京にいると実感できるものだ。
数十キロ離れた埼玉や千葉ではさっぱり実感できない。
曜日とか関係ない生き方の人、多いからなー。

丸の内のOLは、ほとんど同じような髪色、同じような服に見える。
時々、同じ色を身につけたOL達が、エスカレーターにずらーっといる。
それはもう、面白いぐらいに。
えっ、制服?もしくは、なんかの撮影?ってぐらいに。
打ち合わせ無しなのに、同じ色。…読んでる雑誌が同じなのか?
こういう時にむずむずするのが私で、
こいつらの身に着けた“流行色”の反対色…でもない、
なんとも言えない「…あれっ」っていう色をした服を
着てみせたい。地味でもいい。地味がいい。
こういう「退屈を壊す」みたいなことが、相変わらず好きだ。
呼吸をするみたいに当たり前にやっていることが、
私にしかできない面白いことだといいな。


「The」を「ザ」でなく「ジ」と発音する場合といえば
2005年06月22日(水)

「ほぼ日刊イトイ新聞デリバリー版」を、最近よく読む。
要するにメールマガジンで、ほぼ日刊というだけあって
かなりの頻度で送られてくる。
前はよく溜まってしまって、読むのを忘れたりしていたんだけども、
最近そういう「いろんな人の声」をどんどん聞きたいと思っている。
ほんとに、いろーんな。年齢層や職業が違う人たちの。
おそらく駅ですれ違ったりしてるんだろうけども、
ほとんど腰をすえて話し合う機会がないであろう人たちの本音を、
ちょっとのぞきたいと感じているのだ。
逆に、「同世代で同じ職場の人」に興味がわかなくて困っている。
そういう人たちがいま、一番近くて遠いかもしれない。うーん。

目薬をさしたら、まつげにひっかかり、
マスカラの一部を溶かしてそれごと目に入った、痛い!!
そうかあー、目薬をさすのが久しぶりで、
前にさした時はメイクをする習慣がなかったのかあ。
そんなふうに網膜で時の流れを感じるのだった。
「そういや、前におばさんち行ったときは、
 一番速い新幹線は“のぞみ”じゃなくて“ひかり”だったなあ」
っていう感慨にも似てるよね。
結構久しぶりだなあ。ということは、
みんなに大きくなったねぇーって言われるんだろうな。
恥ずかしい過去を暴露されんのかな(※多分、
親戚の集まりかなんかに行く場合)。

家に帰ったら犬がにこにこしていた。
賞味期限の切れかかったかまぼこをもらったらしい。
あいつはにこやかでいいなあ。
耳と尻尾でにこやかさを表現する。
目はむしろ見開くんだ。細めるのは、あくびのとき。

今日はなぜかPCでアルフィーを聴いている。
いやアルフィーじゃなかった、『ジ・アルフィー』だ(お約束)。


手首が痛いのは職業病です
2005年06月21日(火)

パソコンを買い換えたことでCookieが消えてから、
日記をかくたびにログインIDを打ち込んでいる。
最初の頃は毎回「あれ、何番だっけ」と間違えていたが、
昨日あたりから覚えだした。
記憶が増えてるぞ。いいぞ自分。ナイス脳(?)。

脳に自信がなくなる、ニューロンもうだるような日々。
一日の半分以上を会社で過ごすので、基本はエアコンの中だが、
やっぱり帰り道に下界に帰ってくると「あ、なつだ」と気づくのだ。

最近帰り道に小説を読んでいる。
やっぱり、これだけ違うかと思う。
人ごみが気にならなくなる。
急いでつり革につかまろうとか、がつがつした思いが消える。
楽しみがこれだけ人を変えるんだなあと、
いまはじめて私は受け手になれてる、そんな気がする。

「作る人」としての人生にいったん幕をおろし、
「受け取る人」になる訓練をしている。
最終的には両方やる人になりたいなあと思っている。

以前は「私はこうだから」っていう強すぎる自我を持ってしか
ものを見れない時期が続いたこともあって、
網膜にびっしり、自分フィルターがかかっていたんだけど。
最近はすうーっと、ありのままを取り込もうと思う。
自分のフィルターは、後で反芻するときに使う。
そういう使い分けが徐々にできるようになってきた。
今やっと、こういう時期なんだな。
それなりにいい感じで、人の書いた文章を、人の描いた風景を、
目から脳に取り込んでいる。
初めて本を読んだ人のように、新鮮。
こんな経験がこの年でできるとはなあ。


べつに〜いいのだ〜♪
2005年06月20日(月)

朝、小説を買い。
きゅうっとなりながら(あったかくも切ない話)地下鉄に乗り、
帰りは漫画雑誌をもらい。
ほわっ、うわー、ガハハハ(雑誌だから。いろんな話あるから)と
七変化しながらJRに乗り。

平坦なようでいて変化のある、面白い面白い一日。

いま職場ではあんまり会話がないんだけど、
『会社内』というぐらい広げれば、結構話し相手もいて、
面白いんだなーと思う。
こうやってちょっとずつ輪を広げていって、
みんなと顔見知り、みいんなと仲良く、なれたら面白いなあ。
髪型がおかしい部署長とかいるよ。
インドネシア風の顔をしたお兄さんとかいるよ。
14歳に見える27歳もいる、35歳に見える21歳もいる。
ツッコミどころが満載な部屋とかがある。

今とりくんでいる仕事がうまくいかなかったりしんどかったりすると
うわぁぁお先真っ暗、どうしたらいいんだろと思ったりもする。
それはどんな仕事でもありうることだし、
真剣に取り組むからこそ、当然の現象だ。
そのとき、そこが総合的に見て面白い会社であると、かなり救われる。
むしろそれに救われている、今の段階では。

私は「面白い」ということに対して、妙にこだわっている。
「面白い」と感じるということは、
それまでの当たり前をスカーンとぶち壊す瞬間があったということ。
あまりにも閉塞しがちな人生を、スカーンスカーンと壊しながら、
笑い続けたいと思っているのだ。
そうすることが、心と体にとっていいことだと思う。
つまらない空気や平凡さをぶち壊して笑みをもたらすものこそ、
つねに私の中でヒーローであり主役だった。
(たぶん、マカロニほうれん荘の読みすぎだ。)

当たり前の中で生きていることが、なぜか苦手だ。
これは何が正しいとか間違っているとかではない次元の話で、
寿司が嫌いだけど胸を張って日本人!である私は、
周りにとってフツーなものを一人だけ受け付けなくて
食べられなかったとしても、別にいいのだ。
周りも自分も悪くないでしょ、と開き直るのだ。

そういえば知り合いで、レタスが食べられないという人がいる。
なんでダメなの?アクがないのに?って聞きたくなっちゃうのを
ちょっと我慢。そんなことに理由などない、別にいいのだ。


日々勉強だ…
2005年06月18日(土)

ブルーベリー系の食品をつい選んでしまう、疲れ目の日々。
そんだけ仕事がんばってるってことだけどね。
いや、がんばってるよがんばってるぜ俺。Yeah〜(変なノリ)。

今日は珍しくパソコンで音楽を聴いている。
私にとってはほんとに珍しい。
iPodが流行っている昨今だから、世間では普通に日常なんだろうけど。

新しい場所に通い始めると毎回思うのだが、
私は珍しい生き方をしているんだなあ。
学校にも似たタイプはいなかったし、就職先にも今のところいない。
家族ともそれほど似ていない。
このことが普通のことなのか異常なことなのかはよくわからない。
人の間に入れば入るほど、自分の特殊さを思い知る。
そのことは別に寂しくもなく、むしろちょっと小気味よくもある。
もちろんお手本のない不安さはあるけども、
世界で自分にしかできない特別なことがどこかにありそうで、
ちょっと嬉しくなるのだ。

つらいのは同類のいない孤独ではなくて、
伝達がうまくできなくて理解されないことの方だ。
ほんとはうるさいのに外見で大人しいと思われたり、
ずいぶん長いこと海外に行ってないと言っただけで
行動力のない人だと思われたり。
少ない情報で、ありふれた確率のほうに決め付けられているような、
そんな気がすることがある。
そういう人は、私が病気をした過去やなんかを話せば、
急に同情的になったりするのかもしれないけど、
気を遣わせたくないからわざわざ言うことはしない。

ファーストインプレッションに勝負をかけるタイプじゃないので、
私の外見とか、本名とか、年齢とか、出身校とか、
そんなもの、どうでもいいじゃないさと思うのだ。
もっと大切なことがあるはずで、それを語ろうとする人は少ない。
女性であるとか男性であるとかじゃなく、私は私である。
年齢もそうで、年寄りか若いかは精神の問題、いつ生まれたかではない。
若いから元気でいいね、なんて気軽に言ってるんだろうけど、
私の中では「私は若いのか?」「元気だろうか?」なんて
答えのない疑問が渦巻いてしまうのだった。

だからもっと、表面よりも大切なことを学ぶことだけは
やめちゃいけないなと思うのだった。
社会人になると大変なのは、オフが減るということではなく、
自分を高めるために好きな勉強ができる時間が限られるということ。
仕事の中でそれができる状況もありうるが、できない場合も多い。
こうなると考えたいのは、大学時代の私はここまで必死に、
内面を肥やすための勉強をしてきただろうかということ。
早くも後悔があるなあー。
「学生のうちは遊んどけ」って言う社会人が多いけど、
私は自分が勉強不足だったから、学んどけと言いたいなあ。


ねむーいまんま行動したので色々あやふやな一日
2005年06月13日(月)

新しい研修の仕事内容はなーんか変で、ちょっと手が疲れる。
要するに単純作業なのだが、
こんなことで給料がもらえるんだなあなんて思ってしまう。
Webサイトを作る時の画像加工のような感じの動作なので、
私としてはすごく趣味的なにおいもするんだけど、
場所は普通の会社なんだよなあ。パソコンも業務用だ。

仕事の領域ってどういうもんなんだろう、と思うことがある。
「仕事!」って割り切ってやる部分と、
仕事だけど(しんどいけど)面白がる余地のある部分。
後者が多い人生に憧れて会社を選んだが、
実際にはその両方が混ざったような生活を送っている。
気の遠くなるような単純作業も、どっか楽しくやれないかななんて
ちゃっかりしたことを常に考えている。
そういう考え方をしたほうが、体内の活性酸素が除去されて
ストレスフリーとなり、ひいてはがん予防とかにも
つながるんじゃないかなーぐらいに思っているからだ。

退屈なだけの時間なんて、あったとしても認めたくない、
そんな意地もあるのかもしれないなあ。
私はそういう、マイナーなことに対するプライドとか
わかりにくい意地とかが強いほうで、
そういう自我へのこだわりが「HAYA」という名前を
名乗りだすという行為に顕れているのかもしれない。

今日の昼ごはんは骨ばった魚で、あんまりおいしくなかった。
そのせいかな。きっとそのせいだ。
夕飯はたけのこ。たけのこご飯とかじゃなくてたけのこ。
もっぱらたけのこ。他にもなんか食べたなあ、えーとアボカドか。
珍しいラインナップばかり思い出してしまう。

漫画が読みたい!と思っても、なかなか実行に移せない。
忙しいことを理由にするわけにはいかない。
忙しくない頃からこういうことは何もしなかった気がするからだ。
しかし、忙しくなかったのはいつかと聞かれても
具体的によくわからない。うーん。記憶が…(華麗に加齢)。


書、書、書!
2005年06月12日(日)

書道展を見に行く。
モスバーガーの「ニイパオ」の酢豚が入っているほうを食す。
関西弁の漫才で大笑いする。
うーん、いろんなアジアをまるかじり!の一日。

その中で印象に残ったのは書道。
妹がいま学校で書道を習っている関係で(なぜ?)
先生に展示のチケットを頂いたということで、私も同行。
書の展示というのは初めてだ。
なんせ私、自慢じゃないが書道は大の苦手である。
心を落ち着けて書をたしなむような性格ではないからだ!
俺の人生、もっとハードにロックにファンクだぜYeaaah(そうか?)。
特に小学生の頃の「お手本に沿ってきっちり書く」みたいな感じ、
苦手だった。どんなにキチーンとやったつもりでもはみ出す。
卒業する時、書道の先生から「たくさんの生徒の字を見てきたけど、
あなたの字だけはすぐにわかったわ」という、
オブラートに包んだようなマイナス評価を下されたこともあった。

だけど今日拝見したのは本当に「ブシュッツ」と書いたような字や、
「ホワワワー、ツツーッ」と書いたような字、
「ざしゅっっ。」って感じの字など、とにかくバラエティ豊か。
誰かの詩を自由な書き方で書いているんだけど、
詩の内容を受けて、表現の仕方にも変化をつけているのがわかって面白い。
この詩の、この語感が好きだったんだろうな。っていうのがわかる。
小学校でも「正解がひとつじゃなくていいんだよ」っていう教え方も
していかないと、みんな書道が嫌いになっちゃうんじゃないかなあ。
デパートで「御中元」とか書くのが得意な人を育てるのもいいが、
同時に「書道家」というアーティストも育っていかないとつまらない。


ザザー…ン(波の音 by小豆)
2005年06月10日(金)

パソコンを変えて一週間弱。
…あまりゆっくり触っていない。
社会人は忙しいなあ。
別にぐうたらしていなくても、
「まだあれもやってないしこれもやってない」って感じがする。
私の場合、ぐうたらがひとつの前提条件だからね。

PhotoshopとIllustratorをインストールしたというのに、
まだMicrosoft関連と駅すぱあとは入れていない。
やっぱり癖なんだろうなあ、MicrosoftよりAdobeを優先してしまう。
今日はFlashをインストールしよっかな(Microsoftは?)。
Flashも、ちゃんと使いこなせているわけではないので、
さらに勉強していきたいとは思う(余裕があれば…)。
フツーの仕事を選んだからこそ、
グラフィックのソフトも使えるということが面白く生きるのだ。

そんなグラフィックとは関係ないが、
いじっているだけで楽しいソフトといえば駅すぱあと。
ただ単に路線図が好きだからである。
「へー、ここには乗り換え2回でいけるんだー」
みたいな納得が妙に楽しい。ちょっとおかしい。

たくさんの人と接することに慣れていないので疲れてしまうんだが、
あえて、そうでもないですよ?という顔をしている。
それがまた疲れたりもするんだ、まあしょうがないけども。

社会というのはちょっと波みたいな性質もある。
うまく乗れる奴となかなか乗れない奴がいる。
乗れなくて巻き込まれてバランスを崩す奴、
乗ろうとして何度も試みる奴。
じーっと動かずに波じたいを無視する奴。
たまに乗るけど時々泳ぐ、みたいなのもアリである。
波に出会ってどういう行動をとるかは、一瞬の判断みたいなもので、
頭で考える他に、自分の体に染み付いた行動パターンに
任せるしかない部分もあるかもしれない。

個性というのはたぶんその、自分の意思ではどうにもならないレベルだ。
自然に振舞っているつもりでもつい個性的になっちゃうもんである。
頭で考えるのは、どういう風に個性を作っていくかとかではなくて、
むしろ自分の個性はどこで顕れているかをなるべく客観的に分析して、
自分という材料を使って何をするか、戦略を練ることではないか。
今の素材を使っていろんな目的に合わせて行動していくうちに、
自分の中で新しい個性が勝手に開発されていく。

個性的で優秀な人の話を聞いていると、
意図的に自分を鍛えるために行動しているというよりは、
その場その場で何ができるかを考えて、精一杯ベストを尽くしている。
そんな全身のフル回転を経て、
一回り大きくなった後の姿しか知らないから、
「そういう経験が個性を育てた」ように見える。
でも本人からしたら一生懸命考えながら生きているだけで、
「個性をつくる」っていう考え方は後付けなんではと思うのだった。


「はじめまして」な日記執筆
2005年06月05日(日)

やろうとしていたことが何にも終わらないまま日曜日が終わってしまう。
…というだけなら、なんだいつものことかい、とさらりとかわす所だが、
ところがどっこい、この週末は意外とイレギュラーだった。
『注文したパソコンが届く』という、
個人的大事件が起こったからである。

まず、注文してから『○日に届くよ』ということが
確定するまでに時間がかかったということである。
「あと■日で届きます」なんて通知が来たかとおもいきや、
「ごめん、工場の都合で10日ぐらいずれるわ」
「いや、やっぱり急いだんで、最初の予定と同じぐらいか、な?」
こっちもそこそこ忙しかったんで、「ふうん」ぐらいに見ていたら、
ある日我が家の玄関先にべらぼうな荷物がどどんと届き、
私はぎゃふんと呟きながらそれを自室まで運んだ。
パソコンを買い換えるのが二度目だったということもあってか、
なんか「よーし、来い!」という覚悟が不足していた気がする。

前回パソコンを買ったのは数年前、大学二年生の頃。
インターネットも普及しきっておらず、
私もまだ右も左もわからず、
将来デザインで飯を食う可能性も少しはあったにもかかわらず、
なぜだかMacではなくWINDOWSを購入した、あの頃。

昨日、古いパソコンのケーブルをすべてはずして、
古いキーボードを取り外し、そこからぴろんと伸びているケーブルが
散らからないように巻きつけてガムテープで止めた。
この数年間、このキーボードを何度叩いただろう。
特に、「Ctrl」+「Alt」+「Delete」。
しょっちゅう固まっていたなあ。
(PhotoshopとIllustratorを同時に起動するからいかんのだ。)

このサイトから地味にリンクされている
「くつろぎ研究所」という課題用試作サイトも、このパソコンで作った。
締め切り前日、いや当日の未明に夢中で書いた絵で、
どきどきしながらプレゼンした。
プレゼンしながらそれは人生相談になっていった。
私のまとまらない話とまとまらない人生を、
苦笑いしながらも見守ってくれた先生や級友がいたから、
私はこうして今日までなんとか自信を持って、
「なにかを表現することを目指す人生」を送り続けられた。

コンペに出た時のおもしろ文章もこのパソコンで
にやにやしながら打ったんだった(このコンペは大変だったんだが、
振り返ってみると、私個人が手がけた仕事のうち
数時間でさらさらっと書いた“おもしろ文章”が一番の代表作。
ほんとに大変だったはずなんだけど、なんでだろう)。

そしてなにより、このサイトの日記を打ったのも。
うーん、感慨深い。
数年間お疲れ様でした、といいながら、
裏側にほこりのついた本体を雑巾で拭いてあげた。
私の大切なアウトプット手段。

…そういうわけで、この文章を打っているのはすでに新しい子である。
まだぜんぜんソフトをインストールしていない。
それどころか「お気に入り」をコピーするのを忘れたので、
なにがなんだか!わははは。
まあ、これから、よろしく(※まだちょっとぎこちない)。


一日五食
2005年06月03日(金)

朝食はサンドイッチ。
昼食1はおにぎり。
昼食2はハンバーグ定食。
夕食はホットドッグ。
夜食はカレー。

食べ過ぎ。
しかも、一貫性がない。国籍不明だ。
なんで昼食を二回も食べてるのかというと、
たまたまタイミングがなかったのである。
パソコンの陰で作業をしながらおにぎりを食べてしばらくしのぎ、
午後からの打ち合わせを終え、
一人で昼下がりに定食。
普段は部署の方と一緒なのだが、たまには一人で食べるのもいい。
そもそも、一人で食事するのも嫌いじゃないのだ。
脳がフラットで、かえってゆっくりできる感じがある。
決して、人間がすごく嫌いなわけじゃないと思いたいんだけど、
こういう感覚があるということは、やっぱりどこか苦手なのかもしれない。
まあ、そんな感覚がある人間だからこそ、
じかに会うのとは全く違う形で気持ちを伝えようとする。
何かを作る人って、わりとそういう「距離感」を感じる人なんだろうな。

しかし、「私ってこんなにのんびり屋だっけ?」と思うことがある。
それは本当にのんびりしているのか、それとも焦りを感じているのか。
こうしちゃいられない!と思っていることが増えた気がするが、
しかしそれは危険な心理状態である。
そういう気持ちに飲み込まれてしまったら、
十年前と同じ理由でまた体調を崩す第一歩である。
人生をとことん気長にとらえていかないと。
健康で長生きするためには、
長生きする人としての悠然とした時間感覚が必要だ。
限られているからこそ、なるべく長い間、元気でいたい。

そんなふうに体調のことを実は気にしながら暮らしているが、
今周りにいる人達には、体調に関することをいっさい話していない。
前にどんな過程があったか、私にどんな意図があるのかはさておき、
アウトプットとして私が普通に働けていればいいのか、と思って。


「刑事」と書いて「デカ」と読ませる点が特に危ないのだ
2005年06月01日(水)

水が無い月と書いて水無月。
っていうわりに、水っぽいよね?
なぁんか、水くさくない?
水くさいなあ相談してくれよ、俺とオマエの仲だろ?(※たぶん親友。)
オマエだけ、ミュージシャン目指して上京しちまうなんてさっ。
なんて言いながら、河原で小石を投げるのだった。
何のワンシーンなのかよくわかりません。

私は河原で小石を投げたことはないが、
路上で投げたことならある。今思うと、危ない。
危ないエピソードなら豊富だ。
「俺も若い頃は色々危ないことをやったもんだ」という武勇伝に
加えるエピソードだとしても、危なすぎるような(?)。

「昔、ベープマットを食べちゃったことがあります」っていう危なさは、
「学校の窓ガラス叩いてまわってました」っていうよりも、本能的に危ない。
「ベープマットを食って死んだら、俺は蚊だったことになっちまうのか?」
という悩みが生まれるという点で、
「アイデンティティ崩壊の危機」という存在にとっての危なさがある。
まあたいがい、ほっといても蚊じゃなくて人間だけどもね。

カレーを食べようとして、福神漬けを忘れそうになった。
それも、「こだわりの不徹底」という危なさをはらんでいる。
生きるには危ないことが付き物だなあ(広い意味だなー)。